また大正天皇を産んだ柳原愛子もその前に男女一人ずつ出産しているが、二人とも満二歳になる前に亡くなっている。このことを考えれば、明治天皇は家庭的には幸福だったとは言えないかもしれない。ただ、死産や夭折が続いたのは生母が公家育ちのひ弱な女性であったことも大きな原因だろう。そういうこともあって、天皇は息子の皇太子には側室を認めなかったのかもしれない。それよりも健康な女性と一夫一婦制を守ることが「旧来の陋習」を破ると先祖の霊に誓った五箇条の御誓文の精神に沿うもので、国のリーダーとして西洋近代化の手本を示さなければならないという考え方があったのかもしれない。明治天皇と言えば初めて洋服を着た天皇としても有名だが、昭憲皇太后も初めて洋服を着た皇后であった。
明治天皇がいわゆる名君であったということは間違いの無いところで、それは明治政府に批判的だった人間も評価する部分であった。明治を代表するジャーナリストであり歴史家でもある徳富蘇峰は、織田信長から始まる日本通史『近世日本国民史』の著者としても知られているが、この膨大な著作を書こうとしたそもそもの動機は、明治天皇の時代をほぼ同時代人(蘇峰は1863年〈文久3〉生まれ)として生きた蘇峰が、この明治天皇の時代をぜひ書き残しておきたいというものだった。
そのためにはそれに至る歴史を明確にしておく必要があるということで、蘇峰は『近世日本国民史』を完結させたのである。そしてその後、結果的に満年齢で九十四歳(1957年〈昭和32〉没)で天寿を全うするまでの間に、『明治天皇御宇史』全十四巻を完成した。稀代の歴史家徳富蘇峰をしてそうした行動に踏み切らせるほど、明治天皇の御宇(御代)は「魅力的」であったのだ。蘇峰の弟徳冨蘆花は小説家として有名だが、「陛下が崩御になれば年号も更わる。其れを知らぬではないが、余は明治と云ふ年号は永久につづくものであるかのように感じて居た」と述べている。
「明治節」新設と陸軍の思惑
明治天皇を高く評価したのは、もちろん日本人だけでは無い。ドナルド・キーンは前出の『明治天皇を語る』で、天皇の没後世界各国で書かれた新聞の記事を集めて日本で出版された著作について言及し、「世界で最も偉い君主だった。私が読んだ限り、あらゆる国が天皇を一様にそう称賛しています」と述べ、その代表として二つの記事を引用している。一つはフランスの新聞『コレスポンダン』の記事で、それは次のようなものだ。
〈「天皇は、場合によって大臣たちの政策を左右することがあった。なぜなら天皇の活動、天皇の知性は疑うべくもないものだったからである。しかし、天皇の主要な業績は国家の元首であること、また国民生活、国民感情の生きた象徴であることだった。天皇は、それを傑出した賢明さで果たしたのだった。(中略)偉大な王とは、例えばスペインのフェリペ二世のように国事を自ら操ろうと欲する者のことではない。優れた大臣たちに信頼を置き、王権の威光でこれを支援する者のことである」
もう一つの記事は「日本にあるものは中国にあるものを真似たにすぎない、日本に文化はない」と「伝統的に日本を軽蔑して」いた、中華民国の新聞の記事である。
「一世の英雄にして、三つの島から成る国を世界の大国にまで引き上げた日本国天皇は、トンボのような形の国土、龍虎のような国運、五千万の大和民族を後に残して、あっという間に去ってしまわれた」〉
フランスの記事は明治天皇の日本史における業績および役割を見事にとらえたものだし、中華民国の記事はドナルド・キーンも指摘しているように中華思想に凝り固まり内心では日本をバカにしていた中国人ですら、明治天皇の偉大さは認めざるを得なかったことを示している。まさに大帝と呼ぶにふさわしい存在だろう。
昭和になってからの話だが、「明治天皇の遺徳をしのぶ」という目的で、天皇誕生日の十一月三日が「明治節」として国民の祝日になった。一九二七年(昭和2)一月二十五日に貴族院、衆議院両院がこれを決議し、同年三月三日の詔書で正式決定した。戦前つまり一九四五年(昭和20)以前の大日本帝国では、それまで祝日は新年節(1月1日)、新年宴会(新年の初めにその年を祝う宴会1月5日)、紀元節(建国記念日2月11日)、天長節(明治、大正、昭和各天皇の誕生日)の四日だけだったが、これに明治節が加わったということである。
注意すべきは、明治天皇の後を継いだ大正天皇は一九二六年(大正15)の十二月二十五日に崩御し直ちに改元されたので、昭和元年は一週間しかなかったことだ。だから、その次の年一九二七年はあっという間に昭和二年となった。つまり国民の感覚としては、大正天皇が崩御して新しい天皇(まだ昭和天皇とは呼ばれない)が即位してすぐ明治節が定められたという形になる。