侍従はすべて士族出身
ところで、この編の冒頭でドナルド・キーンの『明治天皇を語る』(新潮社刊)をたびたび引用した。キーンは大部の評伝『明治天皇』も書いていていわば明治天皇の専門家なのだが、この『明治天皇を語る』のなかで、これはあきらかに間違いというか著者の思い違いでは無いかと思われる部分が一か所ある。それは次のようなものだ。
〈これは私の個人的な意見ですけれども、乃木希典も嫌いだったと思います。乃木は軍人の地位としては大将どまりでした。東郷平八郎はのちに元帥にまでなったのに、です。日露戦争後、明治天皇は乃木を学習院長に任命しました。それは軍人として名誉ある仕事なのでしょうが、乃木大将は特別に教育者として知られているわけではありません。立派な人物ではありました。しかし、教育に強い信念があったと言うわけでもない。〉(『明治天皇を語る』新潮社刊)
正直言って、この記述を読んだとき私は困惑した。もし著者に好意を持っていない人間がこの著作をおとしめようとするなら、話は簡単でこの一文を引用すればいい。乃木大将のことを少しでも研究した人間がこの文章を読めば、「この男は乃木希典についてなにも知らないな。この本は読む価値が無い本だな」と思うだろう。それぐらい、この文章は初めから終わりまでほとんど間違いと言ってもいいぐらいのものなのである。他のところでは明治天皇に対するじつに鋭い分析を述べている著者が、どうしてこんな過ちを犯したのかまったくわからない。ケアレスミスなどという単純なものでは無く、これは明治天皇論、乃木希典論の本質的な部分に関する問題である。
まず、明治天皇は乃木という人物が好きだった。これは乃木愚将論を一度は日本人の心に植えつけてしまった司馬遼太郎さえ認めている事実である。東郷は元帥になったが乃木はならなかったという事実も、端的に言えば乃木が殉死という形で早くこの世を去ったので元帥にならなかっただけのことで、もう少し長生きしていれば必ず元帥の座に加わっただろう。少なくとも明治天皇に乃木の元帥昇進を妨害する意図など無かった。「立派な人物ではありました」そうそのとおり。だからこそ天皇は皇孫である裕仁親王(のちの昭和天皇)の教育を乃木に託すために、「特別に教育者として知られているわけでは無い」乃木を学習院長に任命したのだ。天皇と乃木の間に深い信頼関係そして特別な結びつきがあってこそのことだ。では、その結びつきとはなにかと言えば、朱子学的な君臣関係なのである。
ここで、明治天皇が若年期に受けた教育を振り返っておこう。注目すべきは、明治になって一新された侍従制度である。侍従という言葉自体は律令時代からあった、もちろん、天皇の側近という意味である。しかし、日本は藤原氏が摂関政治で天皇をコントロール下に置いたためだろう、侍従の地位は形骸化した。藤原氏にとってみれば、天皇の「手足」が増えることは自己の権勢を保つためには好ましくない。この点は幕府政治も同じだったから、侍従はあまり重要な役職では無くなったのである。しかし、大日本帝国憲法においては天皇の役割はそれ以前とくらべてはるかに大きくなった、当然天皇の「手足」も増やさねばならない。そればかりでは無い。それまで京都で女官や取り巻きの公家に囲まれ優雅ではあるが柔弱な育てられ方をしていた天皇を、新しい軍事を重視する国家にふさわしい剛直な人物にしなければならない。そうすべきだと考えた西郷隆盛は、旧幕府きっての剛直の士、鉄舟山岡鉄太郎に侍従就任を要請したのである。当初山岡は、自分は朝敵徳川慶喜の家臣でありその資格は無いと固辞したのだが、思い出していただきたい。幕末、江戸城無血開城を実現するため勝海舟の書簡を持って西郷を訪ねた山岡は、官軍の提示した「徳川慶喜を備前藩に預ける」という条件は認められないと徹底的に抵抗した。当初西郷は不快に思ったが、山岡の主君を思う心に打たれ、慶喜を実家の水戸徳川家に謹慎させる形に変更した。このとき西郷は、「命もいらず名もいらぬという人は始末に困るが、このような人物でなければ天下の大事は為せない」としみじみ語ったと伝えられる。つまり、このとき西郷は剛直の士山岡鉄太郎を見込んだのだ。だから、維新後間も無く山岡に侍従就任を依頼した。山岡は幕末時の恩があるので断りきれず、十年で辞めることを条件に引き受けた。いわば「若殿」の教育係の「爺」になったのである。
山岡だけで無く、若き天皇に近侍する侍従はすべて士族から選ばれた。こうした人々の影響を受け、天皇は乗馬を好むようになり毎日のように馬を乗り回していたが、あるとき落馬してしまい思わず「痛い」と言った。それに対して侍従たちは「男子は痛いなどと口にするものではありません」と諭したという。それ以後、天皇は決して「痛い」とは言わなくなったという。また贅沢を嫌い、常に質素を好んだのも侍従たちの影響である。