イエスは復活という奇跡を示したからこそ人間では無く神(キリスト)だということになり、それゆえにイエスの言行を記録した四つの福音書は『新約聖書』に収録されたはずだ。それなのに、その教義の根幹をなしている「生誕(降誕)」と「昇天(復活)」が記されていない福音書があるのはどういうことか、と幸徳は鋭く批判しているのである。そして、幸徳は次のように断じる。
〈聖書は神話なのだ。小説なのだ。神話小説として読むのはよかろう。玩ぶのはかまわない。研究するのもまた大いに結構だ。けれども基督の伝記としては半文銭の価値もないのだ〉
そして幸徳は、そもそもイエスが歴史上本当に実在したのか、キリスト教世界以外の歴史家の史書を参照し考証している。たとえば、歴史家フラウィウス・ヨセフス(紀元37年~100年頃。幸徳は「フラヴイアス・ジョセフス」と表記)は、名著『ユダヤ戦記』の著者としても有名だが、イエスの死後(復活後)さほど時を経ないうちに生まれたユダヤ人の大歴史家がイエスのことなどまったく記録していない、と述べている。
つまり、キリスト教とは直接関係が無い第三者的な立場の同時代の歴史家で、イエスの実在を証明する記述をしている者は一人もいないということである。そして、〈宗教は必ずしも個人的建設者を必要としない〉〈祖師が宗教を作るよりもむしろ宗教が祖師を作るというのも、決して珍しいことではない〉(=イエスは後から作られた架空の存在である、ということ)と論を進め、キリスト教徒がイエスの「十字架上の死」に基づいて「十字を切る」習慣があることについても、十字の形は古代から使われてきた男性の生殖器などを示す記号であって、〈基督の磔刑に由来すると考えたり、基督教に専有の記号だと考えるのは、大間違いである〉と指摘する。幸徳はキリスト教の言うべき「三位一体論」についても舌鋒鋭く批判しているが、最後の結論はこうだ。
〈基督教徒が基督を史的人物とみなし、その伝記を史的事実と信じているのは、迷妄である。虚偽なのだ。迷妄は進歩を妨げ、虚偽は世の中の道義を害する。断じてこれを許すわけにはいかない。その仮面を奪い去り、粉飾の化粧を?ぎ落として、真相実体を暴露し、これを世界の歴史から抹殺し去ることを宣言する〉
以上の「宣言」をもって幸徳はこの『基督抹殺論』を締めくくっている。たしかに熱のこもった著作であることは間違いないのだが、死刑が予想される苛烈な環境において、幸徳はなぜそこまでこの作品に情熱を注いだのか。普通に考えると、どうしても納得がいかない。しかし、ここで当時の状況を頭に置くと見えてくる仮説がある。その状況とは、他ならぬこの著作の現代語訳者佐藤雅彦が「解説」で指摘しているもので、
〈天皇をじかに批判することは、当時の言論出版規制のもとでは事実上、不可能であった。(中略)菅野スガは、幸徳秋水のもとで政府批判の刊行物を出版しようとしたが官憲に発禁処分を喰らい、秘密裏に読者に配布して逮捕され、現在の金額で数百万円相当の罰金を科されて(中略)もはや言論では社会変革など無理だと観念して、直接的な暴力革命を志向するようになったほどだった。〉
(『現代語訳 幸徳秋水の基督抹殺論』(佐藤雅彦訳 鹿砦社刊)
これが、徳冨健次郎が『謀叛論』で指摘していた「政府の遣口」すなわち「網を張っておいて、鳥を追立て、引かかるが最期網をしめる。陥穽を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ蓋をする」だろう。一方、佐藤は、こういう状況下において幸徳は、直接天皇を批判した著作を書いても多くの人には絶対に伝わらないので、こういうやり方を取らざるを得なかった。
つまり、この著作の目的は基督の抹殺では無く、「今上天皇・睦仁」の「神格性」の「抹殺」、「天皇教という迷信」の「打破」であった、と考えているわけだ。この考え方自体は佐藤以前にも存在したものだが、的確な見方と言っていいだろう。私もそう思う。幸徳の本音はそれであったに違いない。そして、私はこの件で幸徳の「手本」になった書物があると推察している。