唯一「生き残った」著作
それは、江戸時代の『靖献遺言』である。どんな書物かと言えば、次の説明が一番わかりやすいかもしれない。
〈江戸前期の思想書。八巻。浅見絅斎(けいさい)著。貞享四年(一六八七)成立。楚の屈原から明の方孝孺までの、節義を失わなかった八人の中国人の遺文に略伝などを付し、日本の忠臣、義士の行状を付載する。当初は日本の人物を中心にする予定であったが、幕藩体制を考慮して中国のそれに換えた。自説を何ら付していないが、尊皇思想の展開に影響を与えた。(以下略)〉
(『日本国語大辞典』小学館刊)
「尊皇思想の展開に影響を与えた」とあるが、じつはそんな生易しいものでは無かった。いまでは忘れ去られているが、これはかつて「明治維新を招来した書物」などと評されたこともあったのである。幕末の尊皇思想を研究した山本七平は、その著『現人神の創作者たち』(文藝春秋刊)で、この書物のことを「維新の志士といわれた人びとにとって、この『靖献遺言』は文字通りの「聖書」であった。たとえば頼三樹三郎のように『靖献遺言でこりかたまった男』と評されることは、最大の賛辞であった」と述べている。
私の愛読者なら『靖献遺言』は「右翼」で、幸徳秋水のほうはバリバリの「左翼」だから両者はまったく関係無い、とは思わないだろう。では、どこが幸徳の手本なのか。
明治時代に「天皇をじかに批判することは、当時の言論出版規制のもとでは事実上、不可能」であったように、近代以後のような出版体制の無かった江戸時代においては、「将軍をじかに批判することは絶対に不可能」であった。しかし、朱子学者としての絅斎が望んだのは、「覇者にすぎない徳川将軍家は、日本の統治を真の王者である天皇家に返すべきだ」ということだ。
たしかに、幕末このことは大政奉還という形で実現したが、絅斎の生きていた江戸初期にはそんなことを口にしただけで文字通り首が飛ぶ。まともな出版も無い状況下で自分の想いを後世に伝えるにはどうすればいいか? おわかりだろう。だから「中国人の話」にしたのである。この書物には「幕府を倒せ」という主張も、「倒すべきだ」という意見も載せられてはいない。それゆえ江戸中期以降は出版も許されたのだが、この書物を読めば誰でも痛切に感じるのは、「覇者は倒して、王者が政権の主になるべき」ということだ。あくまで「中国の話」なのだが、それを日本に当てはめれば当然「倒幕」が正しい、ということになる。だから「志士の聖書」であり、それに「こりかたまった男」が尊敬されたのだ。
たしかに、『基督抹殺論』と『靖献遺言』では、めざす体制は正反対だ。しかし、まるで写真の陽画と陰画のように両者には共通点がある。博覧強記で古今の文献に通じ明治人でもあった幸徳は、当然この書物の存在と、厳しい「検閲」をいかにして潜り抜けたかを知っていただろう。だからその方法論に学び、「天皇抹殺論」を「基督抹殺論」に替え、いずれ天皇制打倒に立ち上がる「志士」が多数出現することを願っていたのではないか。