1話の冒頭に、朝食を作りすぎたコタローが狩野と分け合うシーンが出てくる。最後に残った卵焼きをどちらが食べるかをかけた、本気のじゃんけんが行われる。親と子、大人と子供なら、卵焼きを子供に譲るだろう。それに、そもそも料理はコタローが作っているのだ。
しかし、狩野は譲ることはせず、じゃんけんに応じる。さらに「わざと負けてやったんだ」と負け惜しみさえも言う。一人の個人として尊重されたコタローは、獲得した卵焼きを満足そうに食べる。
一方、狩野は、コタローの登校時に「車に気をつけろよ」「知らない人についていくな」などとさりげなく声をかける。大切に思いながらも子供とのフラットな関係性と距離感をもっている。
「とてもいい空気感で撮影ができています」と横山が会見で話していたように、横山と子役の川原が演技とは思えないほど自然に、作品の世界観に入りこんでいる。会見では、横山について「2年前より明るくなった」と川原が無邪気に暴露する微笑ましい場面もあった。
物語が進むにつれて、コタローの過去が明かされていく。いつか両親と暮らす日を夢見ているが、コタローの母親はすでに死去しており、父親は暴力や虐待などでコタローとの接見禁止命令が出ている。
前作でコタローは幼少期にネグレクトを受けており、児童養護施設にいたことは明かされていた。今回の続編では、弁護士の鈴野(光石研)により、施設入所前、入所後の生活も明かされる。両親に顧みられず、髪は伸びっぱなしで、たった一人でテレビを見ながらひたすら時間が流れるのを待つコタロー……。実はこういった環境にある子供は意外と私たちの近くにいる。
ドラマの陽だまりのような心地いい雰囲気は変わらないが、ところどころ差しはさまれる“日本のリアル”。それを強く感じたのは、2話のコタローが給食を食べすぎてしまうエピソードだ。コタローは食べ物を前にすると口に運び続けてしまう。弁護士・鈴野によると、幼い頃のコタローは、家に放置され、食べ物がなくなり、空腹に耐えかねて保湿ティッシュを食べた経験があるというのだ。
このときに、かつて筆者が「貧困」のテーマで取材したことがある20代の女性のことを思い出した。彼女もまさに「子供時代、ママが何日も帰ってこなくて、お腹が空いてティッシュを食べていた。あれは甘くておいしいの」と話していたのだ。はっとさせられる“リアル”。徹底した取材がされているのだろう。また、次のエピソードも、子育てをしてきた身としてはギクリとした。
狩野と美月はコタローが通う小学校の給食試食会に参加する。同席するママたちはフードロスについて意識しつつ、「とはいえ、子供に嫌いなものを無理に食べさせるのもねえ……」と意見を言う。そういう母親の子供たちは、苦手なもの、食べられないものを、コタローに次々と“あげる”。当然、コタローはそれを食べる。子供たちに加害者意識はなく、コタローに被害者意識はないのでいじめではない。そのような子供たちのやり取りを、担任の先生は「はしゃいでいる」としか受け取らない。ダブルスタンダードと、想像力の欠如……学校教育現場の縮図がさらりと描かれている。
そういうときも、狩野は傍観者の姿勢を崩さない。饒舌かつ過干渉な母親たちと比べても、子供を尊重するとはこういうことかと伝わってくる。狩野の様子から、子供を健やかに自立させるには、あえて「手出しをしない勇気」も必要、と気付く人も多いだろう。