外国語は「腹筋」
そうだ、イザベラさんはそもそもなぜ日本の古典文学に興味を持ったのだろう。
「ヴェネツィア大学1年の時、日本文学1の講義で『ムラサキシキブ』という名前を聞いたのが最初でした。そこから勉強が始まったんですけど、私的なやりとりにのみ使われたひらがなで女性が女性のために書いた文学がある、ということにものすごく心惹かれたんです。
書き手の女性たちは貴族。私とは社会的地位が違う。時間も距離も言語も、全部遠い。なのに、今の時代に生きている私にダイレクトに届く普遍的な感情がたくさん入っている。頭の中の世界がほんとうに豊かで、あけっぴろげだったり、装ったり、人間臭い。自由がなかった彼女たちは表現することに対してすごく必死で、私も書くときは必死なので、自分とリンクするものを感じたりもしてるのかな。
何より、物語としてすごく面白いですよね。紹介する時は、なるべく親しみやすく書こうとしています。身近に感じてもらいたいので」
そうなのだ、イザベラさんのブックガイドの魅力のひとつは、柔らかい言葉が絶妙なタイミングで登場すること。「バックシャン」とか「セカンドバージン」「姐さん」「ガセネタ」なんてフレーズが、古典や近現代文学の紹介に時空を超えて混ぜ込まれる。百年、千年前の作品がぐっとこちらに近づいてくる。
「『採取』した言葉を使って『うまくハマった!』と思えた時はすごく嬉しいですね。どこかで見聞きした時は別の文脈で使われていた言葉を取り出して、自分が作った文章にはめこんでみる。いつか使おうと思ってた言葉を書いている時って、もうウキウキしてるんです。実験みたいなものなんですけど、それがうまくいくと嬉しくて嬉しくて。ちょっと変態かもしれない(笑)」
変態どころか、教える側としてはそういう実験こそ日本語学習者にやってほしいことだ。間違えてもいいから学んだ言葉をどんどん使って、自分のものにしてほしい。
と思うけれど、一方で、間違えてもいいという気持ちでいるのはそんなに簡単ではないとも思う。
「言葉はツール、道具なので、使わないと意味がないですよね。発音や文法はちょっとずつきれいにしていけばいい。言いたいこと、伝えたいことがあるかどうかが大事で、なかったらそっちのほうが問題だと思います。知らない言葉もそのうち自然と想像できるようになるし、もっと上のレベルに行きたいという気持ちも生まれてくる。外国語の勉強ってフェーズがあって、すごくその言語に染まりたい時と、嫌になっちゃう時がある。だからなおさら、最初は正確さにこだわらなくていいと思います。
私も、だいぶあとになって、すごく間違った使い方をしていたと気付いたこともあります。一瞬だけ、ちょっと恥ずかしいですけど、間違えることに対してマイナスの気持ちはないです。外国語は腹筋だから、どうしたってたくさんやらないと身に付かない。繰り返しやっていかなきゃならないことには変わりがないので、どうしたら苦痛を感じずに続けられるか。私の場合はそれが日本文学で、読みたいものを好きな時に自由に読めたらなという願望が、いろんな言葉を知りたいという欲求につながっていったと思います。
来日して18年になるんですけど、来たばかりの頃は、長く住んでいれば完璧に日本語が使えるようになると思ってたんですよね。でも、自分がたどり着きたい場所にはまだ行けてない。読んだり、書いたりする時は特に感じます。『なんでまだ「は」と「が」を間違えてるんだろう、私』みたいな」
「は」と「が」は、教える側としてもなかなかの懸案事項なんですよ……ともっともっと話したくなる。だめんず文学、罵倒語、イタリア語の文法。イザベラさんと話していると、楽しくて時間を忘れてしまう。
ところで、イザベラさんはこうやって日本語を話す、話せていることをどう感じているのだろう。母語以外の言葉を操るというのは、どんな感覚なのか。