「論文も書いていますしね。この『冷血』こそがノンフィクション・ノヴェルの嚆矢とされるわけですが、私はむしろ事実とは何かということを問いかける作品に思えてならないんです。

 カポーティはその前文に、これは完璧な紛うことなき事実だと書いてますけど、フィクションを否定しつつ、ノヴェルを名乗る時点で既に矛盾があるし、かと思うとあの作品に描かれた犯人の行動は犯罪学や小説の常識を逸脱している。現に一家4人を惨殺したのは凶暴なディックではなく心優しいペリーです。だとすれば事実って何なんだと。

 今回私が書いた事件でも、仮に彼女が喋っても真相は分からない気がしますし、そこに私は恐怖を感じるんです。奇しくも作家の長江俊和さんが帯に『事実という恐怖に打ちのめされた』というコメントを寄せて下さいましたけど、事実ほど分からないものはなく、分からないものほど薄気味悪いものはないと思います」

 そうした前川作品特有の気味の悪さやザワザワ感は、ついでにいえば時代も問わないと氏は言う。

「最近は機捜が現場でまずやるのが防犯カメラのチェックらしく、事実は確かに目に見えやすくはなった。でも人の内面や証言の裏の裏までは本人も分からないままで、その分からなさはやっぱり、フィクションで書くしかないんです」

 だからだろう。本書には何の意味や目的を持つかも分からない細々した事柄が、論理の網から零れ落ちるように散乱し、伏線も完全には回収されない禍々しさが、現実の手触りなのだろうか。

「そうそう。私がそう言ったことにして下さい(笑)」

 とお茶目に言いつつゾッとする小説を書く、著者の心の内もまた、分からない。

【プロフィール】
前川裕(まえかわ・ゆたか)/1951年東京生まれ。一橋大学法学部卒。東京大学大学院人文科学研究科修了。専門は比較文学。「私は刑法から比較文学に転じた変わり種、いちおうリーガルマインドはあると思う」。法政大学国際文化学部教授を長年務め、昨年より同名誉教授。2011年『クリーピー』で第15回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞し翌年デビュー。同作はシリーズ化、映画化もされた。著書は他に『死屍累々の夜』『イアリー 見えない顔』『号泣』等。183cm、85.5kg、A型。

構成/橋本紀子 撮影/国府田利光

※週刊ポスト2023年6月2日号

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