マライさんが日本語を学び始めた頃に使っていた教材
「この間、外国人3人で、取材で関西地方のある島へ行ったんです。夕飯を食べようと思ってお好み焼き屋さんに入って『すみません、3人なんですけどいいですか?』って言ったら『ちょっと』って。空いてる席もあったから『あ、だめですか?』って、慣れた感じの日本語でもう一回聞いて、でもやっぱり返ってきたのは『ちょっと』。
差別的なことを言われたわけではないけれど、結構こたえましたね。他の2人はほとんど日本が初めてだったし、そういう日本を見せたくなかった。去年も、インバウンド観光動画のために取材したかった温泉旅館に連絡したら『撮影はちょっと』って言われて、ああそうなのか、と思ったことがあります。
スタッフがあまりいないとか、いわゆるしきたりが分からない外国人に服のまま入ってほしくないとか、外国人を相手におもてなしをできる自信がないとか、事情があるのかもなって分かろうとはするんです。だけどどっかですごく心が痛い。『ちょっと』って、よく使われるけど結構大変な単語ですよね」
「習ったけれど使わない日本語」とは
相手にダメージを与えたくない気持ちと曖昧にしておきたい気持ち、その両方が「ちょっと」には含まれている。はっきり言わない(言われない)ことに慣れているので、少しでも強い言葉を聞くと不必要に重く感じてしまうのだ。
「そうそう。強い言葉はなかなか使えないですよね。『全部は言わないけど、察してね』っていうのが日本語の前提で、自然な言い回しを身に着ければ会話がスムーズに進むかといったら、そうじゃない。違和感を与えないように喋るのがすごく肝心。突っ込んだことを言うと、相手が『あ、そうか、今自分は外国人と話してるんだ』って急に我に返ったような表情をすることがあって、やっちゃったと思うことがあります、今も。
日本語を間違えた時も『あ、この人外国人なんだ』って思われるわけですけど、そういう時に『でもマライさん、日本語うまいですよね』って言われるんですよ。面白いなあと思います。うまくなるにつれて、うまいですねとは言われなくなるのに、間違えるとうまいですねって言われる(笑)。あれはなんの現象なんだろうな」
難しい日本語ができてすごいですね、という気持ち、労い、驚き、畏敬。それらが表出したのが「うまいですね」だ。ごく自然に出てしまう言葉ではあるが、日本語は難しい、という前提があるのは(先ほども述べたが)不思議なことだし、「うまいですね」は感嘆であると同時に「評価」でもある。故に評価する側、される側という線引きも浮かび上がる。つまりそれは、日本人かそうでないかという心の線引きだ。