日本側の戦死者は「ほんのわずか」

 この常識を青島の戦いにあてはめてみよう。この戦いは、ドイツ軍から見れば青島要塞籠城戦である。つまりドイツ軍は「包囲され補給を絶たれた城の兵士」であり、「徐々に精神的にも物質的にも損耗し弱ってい」たはずなのである。なにしろ補給ができないのだから食料も弾薬もどんどん減っていくし、医薬品にも限りがある。しかも籠城というのは、狭い場所に閉じ込められ行動の自由が利かなくなるということだ。

 相当タフな人間でも拘禁ノイローゼのような状態になることはおわかりだろう。ではこれに対する特効薬はなにかと言えば、「援軍が来る」という希望だ。援軍さえ来れば当然食料も弾薬も補給されるだろうから、事態は好転する。長篠城が絶体絶命のピンチを乗り越えられたのも、「たしかに援軍が来る」という情報を全員が共有したからだ。

 では、青島要塞ではどうだっただろう?

 まったく逆であった。主戦場はヨーロッパ戦線で、本来なら膠州湾を守るべきドイツ東洋艦隊の精鋭はヨーロッパへ派遣された(フォークランド沖でイギリス艦隊の待ち伏せを受け全滅したことは、すでに述べた)。肝心なのは、このとき少なからずの量の食料、弾薬、医薬品などを要塞備蓄のなかから持ち去ったであろうということだ。末端の兵士というのは、戦局全体を知らないことが多い。

 本能寺の変のところでも述べたが、最高指揮官である明智光秀は自分の軍団に「信長を殺せ」などという命令を発する必要は無い(むしろ、そんなことをしたら兵士のなかで従わない人間が出たかもしれない)。指揮官は詳しい説明抜きに、ただ「この寺を取り囲め。なかに居る人間は皆殺しにしろ」と命令するだけでいい。それで軍隊は動く。「上官の命令は絶対」だからである。

 もっとも、日露戦争の旅順要塞攻略戦で乃木希典大将が「白襷隊」に攻略意図を説明したように、また日本海海戦で東郷平八郎大将が「Z旗」をあげて総員を激励したように、説明することによって士気が上がる場合もある。しかし、この青島要塞「籠城戦」ではそんなことは一切できなかった。籠城軍はドイツ本国から見捨てられたからである。その状況を上級士官だけが把握していて現場の兵士がまったく知らないというならまだいい。希望は無くても、絶望を認知できなければ人間はそこそこ戦えるからだ。

 しかしこれまでの説明でおわかりのように、おそらくは現場の一兵卒に至るまでドイツ軍は「援軍など来ない」ことをじゅうぶんに認識できただろう。繰り返すが、主戦場はヨーロッパであり自軍の精鋭はそちらへ派遣されてしまったのである。通常ならあり得ないことだが、この場合はドイツ軍すべてが「このままでは補給も無く、陥落の運命しかない」ことを熟知していたはずなのである。

 ところが、この記事は「獨逸守備隊の士氣は益々振ひ」「神經過敏的状態も今や醫せられ」「人は漸く日本の彈丸に馴れつゝあり」などと述べている。おわかりだろう。そんなバカなことはあり得ないのだ。

 一方、「青島砲臺修築せられ益々堅固となり」というのは、あり得ないことでは無い。時間をかければ、どんな要塞でもコンクリートなどで固めて堅固にすることはできる。しかし、その建築資材にも限りがある。日本軍は逆に無限に補給ができる。籠城兵の士気をくじくにじゅうぶんな、この事実もドイツ兵にはわかったはずだ。何度も繰り返すが、主戦場はヨーロッパなのだから日本軍の補給をドイツ軍は妨害できない。

 アメリカ人記者「ブレース氏」というのは、ほかの記録にも登場するから実在したことはたしかなようだ。のちにアメリカはイギリス側に立ってドイツに宣戦布告するが、この時期はまだ中立国であり、中立国であるがゆえに記者の代表が青島要塞内の取材もできたようだ。だからこの記事が書かれ、それを朝日は「アメリカは青島要塞攻防戦をこう見ている」という形で翻訳して紹介したのだろう。

 しかし、わからない。ブレース記者は、なぜこんな記事を書いたのか? 戦場の常識から言って事実であるとは到底思えない。こうした場合、当然の話だが戦場を熟知した優秀なベテラン記者が派遣されるはずである。にもかかわらず、記事内容は戦場の常識にまったく反している。なぜこんな記事が配信されたのか?

 アメリカの国策に沿う記事(つまり謀略)ではないかと一応は考えてもみた。この時期アメリカは日本の中国進出に強い警戒感を抱いていたから、膠州湾が日本の「モノ」にならないように日本の総攻撃を遅らせるべきだという記事を書いたのならば、話はわかる。結果的にこの第一次世界大戦は終結までに数年かかったが、それはこの時点で予測できることでは無い。戦争が早期に終結し「歐洲の平和を見」れば、日本は膠州湾を攻撃し占領する大義名分を失うから、「総攻撃はもっと遅らせるべきだ」という記事を書くなら納得できるのだが、中身はまったく逆である。

 この記事に関しては、今後も検証していく必要があると思う。問題はこれ以降徐々に、この記事の影響としか思えないが「青島攻略総司令官神尾中将の作戦は慎重すぎる」という見方が日本に広まっていくということだ。朝日新聞がそういう見方が日本の世論になることを期待していたなら、もっと露骨に言えばそういう世論操作を意図していたとすれば、この記事をわざわざ転載したのも理解できる。

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