「孫文ならよかったのに」

 さて、話を戻そう。他ならぬ勝海舟が生涯を通じて一貫して述べていたのは、欧米列強の侵略の魔の手に日本、朝鮮、中国が共同して対抗しよう、ということだった。日韓併合はさまざまな問題点はある。対等な合併と言いながら、大韓帝国皇帝は国王に格下げになり日本天皇の下に置かれたことや、朝鮮語が日本語と同等の地位を持つ国語になら無かったことなどがそうだ。

 しかし、一方で朝鮮半島出身の平民が大日本帝国陸軍の中将にまで出世するような道も開かれており、完全とは言えないにしても日本と朝鮮が対抗して欧米列強に対抗する形はできていた。だからこそ昭和二十年、大日本帝国の解体をめざしたアメリカとそのときはタッグを組んでいたソビエト連邦(現ロシア)は、うまく連携できていた日本と朝鮮半島を分断するために、それぞれ強烈な反日主義者である李承晩と金日成を送り込んでそれぞれ大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を成立させたのである。

 では、日本と中国の連携はなぜうまくいかなかったのか? うまくいかなかったからこそ日本は満洲国建国という賭けに出たわけだが、「盗人にも三分の理」(悪事を働くにも相応の理屈はある。どんなことにでも理屈はつけられるということ。泥棒にも三分の道理。『デジタル大辞泉』)ということわざがあるように、日本にも「相応の理屈」はあった。

 最大の理由は、当時の中国のトップが袁世凱であったことだろう。「孫文ならよかったのに」と言えばわかりやすいかもしれない。明治の日本には、まだ勝海舟的考え方の人間が大勢いた。そうした人々が期待を掛けたのが朝鮮の金玉均であり、支那の孫文であった。その金玉均が朝鮮王室によって極刑に処せられたことにより、朝鮮の自力近代化を応援していた福澤諭吉はそれをあきらめて脱亜入欧、つまり欧米列強の仲間入りをめざせと主張を変えた。

 しかし、それでも辛亥革命を曲がりなりにも成功させた孫文がこの第一次世界大戦の時点でも中国の指導者であったなら、当然外交による協調路線をめざすべきだとの論議が日本でも支配的になったはずである。宮崎滔天のような大アジア主義者で無くても、アメリカで教育を受け民主主義のなんたるかがわかっている孫文が中国の指導者なら、日本人は協調して協力するべきだと考えただろう。

 しかし前にも述べたように、結局孫文は中華民国を成立させるために、別の言葉で言えば清朝に完全に終止符を打つために袁世凱と妥協せざるを得なかった。ただここで注目していただきたいのは、孫文も李完用と同じく清朝の愛新覚羅家を滅ぼすまいと努力していることだ。それは李完用のような主君に対する忠誠心がさせたことでは無く、血で血を洗うような修羅場は避けたいという文明人としての孫文の姿勢によるものだったと思うが、残念ながら中国ではこれが裏目に出た。

 前にも述べたように、その妥協で権力を握った袁世凱は、本来中国民主化の最大のリーダーとなるはずだった宋教仁を暗殺した。つまり袁世凱は中国本来の、西洋文明から見れば野蛮で独善的なやり方で権力を維持しようとした。ある意味で現在の北朝鮮を仕切っている金一族とよく似ているが、この段階で多くの日本人が中国を見限った。金玉均の処刑を知った福澤諭吉が「あの国に自力の近代化は無理だ」と見限ったように、である。

 本当に中国が自力で生まれ変わろうとしているなら、そして中国人にその能力があるなら、袁世凱がどんなに旧時代の軍事力を誇ろうとも孫文が勝つはずである。実際、フランス革命では民衆が国王軍に勝った。しかし、中国人にはそれができない。ならば、やはりイギリスのようなやり方で中国と対峙するのが一番よい、ということになる。

 昨年、『絶対に民主化しない中国の歴史』(KADOKAWA刊)という本を出した。私は、かつて「朝鮮戦争は韓国の奇襲によって始まった」(実際は北朝鮮の奇襲)などとデタラメを、しかも一流大学で教えていたようなインチキ学者では無い。もちろん人間だから自分が正しいと思っても間違うことはあると思うが、少なくとも中国が民主化できないというのは歴史的事実なのである。

 民主主義が実現するためにもっとも必要なことは、「万人が平等である」という確固たる信念が国民あるいは民族の間に確立しているかどうかだ。アメリカ合衆国はその点をクリアしている。だからこそ、アメリカ独立宣言にはその理念が高らかに謳われている。

 それを前にも述べたように「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という形ではじめて日本語に訳した福澤諭吉は、じつはこの続きで「言えり」と言っている。つまり、「そうは言うけれども」実際は人間は平等では無いという文章がその後に続くのである。そしてその結論は、だからこそ人間は学問をして自らを向上させなければいけない、となる。だから『学問のすゝめ』というタイトルになる。

 じつは、ここで福澤が展開している理論こそ朱子学であり、福澤はそれを超えて人間は学問の力で平等になれるとしているのだが、中国人は人間には能力の差があり、そんなことは決してできないと考える。だからこそ絶対に民主化できないのであり、結局は孫文より袁世凱を選ぶということにもなった。

 日本から見れば、当然中国は野蛮国ということになる。

(第1406回へ続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年1月26日号

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