要するに、これ以後日中問題を穏健に扱おうとした人間の脳裏には、必ずこの事件が浮かんだだろうということだ。もっとわかりやすく言えば、暗殺への恐怖である。じつは、いま分析している「対華二十一箇条要求」の主役加藤高明の心の奥底にもそれがあった、と私は考える。あまり陸軍の意向を無視して強硬路線を批判すれば、「暗殺されるかもしれない」という恐怖である。
そういうことを言うと、すぐ歴史学者の先生方は「加藤が暗殺を恐れていたという史料は無い」などと言う。史料絶対主義者の「史料が無ければそれに伴う事実も無い」という杓子定規の結論である。まるで人間というものがわかっていない。加藤は政治家であり、のちに総理大臣にまで上り詰めた人物だ。そういう人間は、公式でもプライベートでも絶対に「暗殺が怖い」などとは口にできない。そんなことをしたら、政治家としての評価が一気に下がるからだ。
つまり、後世にそうした「恐怖」の証拠を絶対に残してはいけないので、そうした政治家の心情を理解せずに歴史の分析などできるはずも無い。要するに、この時代多くの日本人は「暗殺怖さ」つまり「陸軍怖さ」に陸軍と対立することをやめてしまった、ということだ。この「暗殺への恐怖」に注目しなければ、結局「加藤が最終的に陸軍の意向を徹底的に尊重したことは合理的に説明できない」などという結論になってしまう。
では、まったく暗殺を恐れなかった政治家はいなかったのかと言えば、少なくとも一人はいた。犬養毅である。犬養は当初から「火事場泥棒のようなマネはやめるべきだ」と言い続けた。その結果どうなったか、だ。ご存じだろう。五・一五事件で犬養は暗殺されてしまった。
直接暗殺したのは陸軍では無く海軍の軍人だったが、そのとき犬養は現役の首相だった。警察は現役の首相の暗殺を防ぐことができなかった。しかも、本来軍人が武器を用いて首相を暗殺すればどこの国でも死刑が原則だが、新聞のキャンペーンもあって助命嘆願運動が起こり、犯人たちは一人も死刑にならなかったことはすでに述べたとおりだ。これで日本人は、軍(とくに陸軍)の意向には逆らうべきではない、とさらに思い込むようになった。
それにしても、対華二十一箇条要求はあまりにも強硬で日本の国際的評判を大きく下落させるものであることは、当初から予想されていた。では、そうした常識にのっとり、もっと融和的な外交政策を進めるべきだと考えていた人間は、当時日本の中枢には一人もいなかったのかと言えば、確実に一人はいた。その名をクイズにすれば、この時代の専門家ならともかく、おそらくほとんどの人間が正解にたどり着けないだろう。その人物とは、「陸軍の法王」元老山県有朋であった。