「支那に於て承知すべき筈なし」
大日本帝国発足以来、いや帝国憲法が発布され近代的な内閣制度、官僚制度がスタートした後も、重要な案件は山県ら元老に報告し、その了承を得るのが政治の常道であった。それゆえ加藤は二十一箇条要求の概略ができたとき、山県に面会を求めそれを説明した。要求が正式に袁世凱に突きつけられる前年の一九一四年(大正3)十一月のことだ。
〈加藤の説明を聞き終えた山県は、「対支政策につきては、君と余と根本的に意見を殊[異]にせり」と語った。山県は、青島については「帝国政府の本意が潔よく還附するにある旨」を中国に告げる必要があるとした上で、次のように意見を異にする理由を述べ、要求内容の根本的疑問を突きつけた。
只今聞く所の個条は種々雑多にして、中には外交上重要なる事件は先づ日本に相談せよと乎、財政上の事は第一に日本に依頼せよと乎云ふ如き個条もありし様子なるが、斯かる属国扱ひの個条は、支那に於て承知すべき筈なし。政府は果して斯かることまで要求する考なりや。〉
(『対華二十一ヵ条要求とは何だったのか 第一次世界大戦と日中対立の原点』奈良岡聰智著 名古屋大学出版会刊)
文中にある「潔よく還附」とは、中国側のマスコミもこれが日中友好推進には最善の道だと考えていた「膠州湾(青島)の無条件返還」ということだろう、「支那に於て承知すべき筈なし」と山県が評したのは、悪名高い第五号のことである。陸軍の頂点に立っていた山県有朋の見解は、きわめて意外なことに当時の常識から見てももっとも穏健で理性的なものだったのである。
ここで二つの重大な疑問が湧く。一つは、陸軍全体が一貫して強硬な姿勢を支持していたのに、その頂点に立つ山県だけがなぜ理性的な判断ができたのか。もう一つは、この強硬姿勢に疑問を持っていたはずの加藤は、なぜ山県を利用して陸軍の強硬姿勢を抑えようとしなかったのか、である。
最初の疑問については、司馬遼太郎的表現を使えば山県はただの「へータイ(兵隊)」では無かったからだろう。覚えておられるだろうか、日露戦争の奉天会戦に日本が勝利したとき、これを機にアメリカに講和の斡旋を依頼するはずが、中央の参謀本部は勝利に冷静さを失い当初の戦略を忘れてしまった。怒った現地軍の参謀長児玉源太郎が、中央を説得するために現場を離れて東京に向かおうとしたことがある。
私はここが司馬遼太郎の名作小説『坂の上の雲』の屈指の名場面だと思うのだが、それを慌てて止めようとした満洲軍参謀松川敏胤に対して、児玉がからかう場面がある。そのとき児玉が口にしたのが、「お前はただの『へータイ』だな」というセリフである。むっとした松川が「閣下はそうではないのですか」と反論すると、児玉は次のように答えた。
〈「ちがうな」
児玉は、大山もそうだが、幕末内乱の弾雨の中をくぐって日本国家があやうい基盤の上にやっとできたのを体験のなかで見てしまったヘータイであるという。〉
(『坂の上の雲 七』司馬遼太郎著 文藝春秋刊)
ここは先月発売の文庫版最新刊『逆説の日本史 第二十六巻 明治激闘編』でも詳しく取り上げたところだが、わかりやすく言えば児玉も山県も苦労人で、松川のようなお坊ちゃん育ちとは違うということだ。彼らは、本当に貧しく力も無い時代の日本を苦労してここまで育て上げてきた。しかし、若い世代にとっては生まれたときから日本は強国だから、それがあたり前だと思って育つし弱国の気持ちなどわからない。山県に言わせれば、「若造どもは調子に乗りすぎておる。苦労を知らん」というところだったろう。