「悪のパワー」を鎮魂
では、なぜそこまで「和」にこだわるのかと言えば、「和」が乱れたときのことを考えてみればいい。争いが生じ、争いは争いを生み、必ず勝者と敗者が生まれる。敗者が怨念を抱いて死ねばそれは怨霊と化し、日本をあらゆる不幸に陥れる。そもそも神の子孫である天皇が君臨する日本はその霊力(御稜威)に守られているから、疫病や地震や凶作や兵乱といった災厄が起こるはずが無い。
それでも起こるのは、天皇の霊力を凌駕する「悪のパワー」を持つ怨霊が出現するからである。だからこそ、とくに古代日本の政治家は怨霊を鎮めることがもっとも重要な政治課題と考えた。これも個々の事例をいちいち指摘していれば、それこそ数冊の本になってしまう(実際、単行本版『逆説の日本史』では、第9巻あたりまでそれがメインテーマである)。そこで、少しだけ例を挙げておくと、
〈○日本以外のすべての国では「最高神は最大の神殿に祀られる」。あたり前の話だが、日本では最大の神殿である出雲大社に祀られている神は、勝者である大和朝廷の先祖アマテラスでは無く、「国を譲った」敗者のオオクニヌシであること。
○天皇をイジメ抜いて早めに退位させ、自分の娘が産んだ子を次々に天皇にした「日本一の傲慢男」藤原道長。道長は、藤原氏のもっとも有力なライバルだったが結局は敗者となった源氏(賜姓源氏)の若者が出世し、その(藤原氏では無く源氏の血を引いている)息子が最終的に天皇になるという小説『源氏物語』を、自分の娘に仕える女官紫式部に書かせていること。
○天皇家は、武家に政権を奪われたことを「日本一の大怨霊」崇徳上皇のタタリのせいだと確信しており、明治から現代に至るまで鎮魂に努めていること。〉
ちなみに、なぜ「第九巻あたりまで」と限定するかと言えば、第十巻以降は本格的な武家の時代に入るからだ。武家とは「殺し合いがあたり前」という階層なので怨霊をまったく恐れないし、怨霊鎮魂が必要だとは夢にも考えないのである。先ほどの「藤原道長・紫式部と源氏物語の関係」は、江戸時代にたとえて言えば、徳川将軍家の大奥で御台所(将軍の正夫人)に仕える「お局」が、「豊臣氏がライバルに勝って天下を治める」という「豊臣物語」を書き、将軍も御台所も愛読しているというのと同じことで、世界中絶対にあり得ないし、日本でも武家社会ではあり得ない。
しかし、人を不用意に死に追いやると怨霊と化しタタられると信じていた天皇を中心とした公家階級では、武家とは逆に怨霊鎮魂を政治の最重要課題とした。だからこそ敗者である源氏が勝つ、という内容の物語を「部下」に書かせたのだ。現実の世界の敗者に「物語のなかでは勝たせてやる」ということで、敗者のオオクニヌシが勝者のアマテラスより大きい神殿に祀られているというのも、怨霊鎮魂である。
こうした信仰が明確に存在することを大前提にして考えれば、日本においてもっとも重要なことは「怨霊を発生させ、慌てて鎮魂に努めること」では無く、そもそも「怨霊が発生しないように争いを無くす。そのために話し合いで決める」ことこそ最優先だということがわかるだろう。だからこそ「和を保つ」ことがあらゆることに優先する。それゆえ聖徳太子も「憲法の第一条」にそれを定めた。