作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十五話「大日本帝国の確立X」、「ベルサイユ体制と国際連盟 その1」をお届けする(第1452回)。
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尼港事件はソビエト連邦が責任を認めず、日本も謝罪と賠償を求めた北樺太の保障占領が国際的に非難されたため撤兵し、結局はうやむやになった。
ただ、日本国内への影響として共産主義国家あるいは国内の共産主義者に対して強い嫌悪感が生まれ、ソビエトが責任を認めないことでそれが増大していったことには注意を払う必要がある。そもそも共産主義は、帝国主義という残酷で貪欲な先進国の「悪」を根本的に解消することを意図して生まれたものだった。だから、世界中で正義感の強い若者の支持を集めた。
ところが、日本では「アカの言うことなど嘘八百だ。尼港事件を見ろ」という形で、共産主義否定の材料に使われた。それを左翼歴史学者は「宣伝」という言葉を用いて否定的にとらえるが、赤色パルチザンによる民間人も含めた日本人虐殺は事実なのだから、その態度はおかしい。むしろ、その後に共産主義の指導者であったヨシフ・スターリンや毛沢東が自国民を大虐殺したことでもわかるように、共産主義の暗黒面に日本人はいち早く触れたと考えるべきだろう。
当然それは、「わが大日本帝国の国体はやはり正しいのだ」という「自信」にもつながる。尼港事件が日本人全体に与えた思想的影響は、きわめて大きいと見るべきだ。逆に言えば、それを教科書から排除するなど歴史を論ずる者としてあり得ない態度と言うべきなのである。
ところで、その後の日本を語るには事件の起こった一九二〇年(大正9)三月から少し時間を遡らねばならない。まずは、一九一八年(大正7)十一月十一日にドイツが連合国側の求めた休戦協定に調印したことだ。これは第二次世界大戦における日本のポツダム宣言受諾と同じで、事実上の降伏だった。
すでに述べたことだが、開戦から終戦までの経過を簡単に振り返ると、一九一四年(大正3)「サラエボの一発の銃声」で始まった第一次世界大戦に日本は同年参戦して、ドイツの青島を攻略した。翌一九一五年(大正4)には、「鬼の居ぬ間の洗濯」とばかりに「対華二十一箇条の要求」を中華民国に受諾させた。
一方、ヨーロッパ戦線は膠着状態が続いたが、連合国側の経済封鎖にたまりかねたドイツは、一九一七年(大正6)から大西洋において潜水艦Uボートによる艦船無差別攻撃に踏み切ったが、これに怒ったアメリカの参戦を招いてしまった。また、ドイツは連合国の一員であるロシア帝国には「封印列車」でウラジーミル・レーニンらを送り込み、革命で帝国を崩壊させることには成功したが、戦局は好転せず一九一八年(大正7)の敗戦を招いたというわけだ。
この大戦の結果、敗者となった同盟国側のドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国だけでなく、勝者となるはずだったロシア帝国でも帝政が崩壊し、さらにこの大戦の敗北によって弱体化したオスマン帝国も一九二二年(大正11)には崩壊し、トルコ共和国になる。文字どおり、第一次世界大戦は「世界の地図を塗り替える」結果となった。