あたり前の話だが、簡単に結論が出る問題では無い。その前に、この一連の動きが当時の日本にどのような影響を与えたかを考察してみよう。
世界的にはレーニンは英雄であり、しかも帝国主義という「悪」を根絶するという姿勢を示した先駆者でもあった。だからこそ英米にくらべれば「後発」の帝国主義国であるアメリカも、民族自決などその主張を一部取り入れざるを得なかった。共産主義はその意味で正義感の強い若者だけで無く、野蛮な植民地支配に嫌悪感を抱く世界中の知識階級にも評判はよかったからだ。
共産主義を国是とするソビエト連邦も中華人民共和国も、後には自国民を殺し周辺の国家を属国化するという「新帝国主義」を始める。そして、その思想的影響はソビエト連邦が解体しロシア共和国になったところでも消えなかった。だからこそ、いまの多くのロシア人はレーニンとファーストネームが同じウラジーミル・プーチン大統領を支持し、ウクライナ侵略を侵略だと考えていない。その意味ではプーチンは、皮肉なことに革命家レーニンよりロマノフ王朝の皇帝に似ている。
しかし、もしタイムマシンで一九二〇年に行けたとして、当時の人々に「将来、共産主義は新帝国主義という悪をもたらし、多くの人々を苦しめる」と言ったら、「なにをバカな!」と一笑に付されたろう。いや、激怒した人々にリンチに遭ったかもしれない。それぐらい当時の世界においては「共産主義は正義」であり、「レーニンは英雄」だ。だから、とくにアメリカの若い世代や知識階級には共産主義が浸透していった。
ところが、日本はまったく事情が違った。共産主義に心酔した若者が「レーニンこそ英雄だ」などと口にすれば、下手をするとまさにリンチをくらう。「レーニンの国は罪も無い日本の婦女子まで蹂躙し虐殺したんだぞ!」だからである。これは宣伝では無い。無抵抗の日本人に対する虐殺は事実であり、レーニンを頂点とする共産主義勢力が謝罪も賠償もせずにうやむやにしたことも事実である。だから反論できない。
もし私が当時のレーニンの立場にいたならば、主犯のトリャピーツインを死刑にしたとき、「日本人虐殺の責任も取らせた」と一言日本に通告しただろう。どんな組織でも人間でも間違いは犯す。ただ、その過ちを絶対に認めないという態度は多くの敵を作る。
それが人類の常識であるからだ。
(第1453回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年5月9・16日号