「人生の節目で運に恵まれ、要領や巡りあわせがよかった」(国枝栄氏)
1978年に調教助手として競馬界に入り、1989年に調教師免許を取得。以来、アパパネ、アーモンドアイという2頭の牝馬三冠を育てた現役最多勝調教師・国枝栄氏が、2026年2月いっぱいで引退する。国枝調教師が華やかで波乱に満ちた48年の競馬人生を振り返りつつ、サラブレッドという動物の魅力を綴るコラム連載「人間万事塞翁が競馬」から、調教師を目指した頃についてお届けする。
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中学時代から競馬が好きだったけれど、まだ競馬学校などない時代。どうやったら騎手になれるのかなんていうのはわからなかったが、獣医になれば馬と触れ合うことができるかなと思っただけ。今は小学生が騎手を目指して乗馬を習ったりしているけれど、当時の私はまだ競馬の仕事に就きたいとは思ってもいなかった。
地元岐阜大や関西の大学という選択肢もあったが、府中市にある東京農工大農学部に獣医学科があった。東京競馬場の近くだし、家を出たかったこともあったので受験した。
入学して馬術部に入ってからは、ほとんど勉強はしなかったなあ。東京競馬場の誘導馬などの世話や、馬房の掃除などをするアルバイトに就くことができ、当時の名馬を目の当たりにすることもできた。今考えてみれば、この頃が一番楽しかった。
卒業が近づいた1977年頃、2歳年上で他大学の馬術部にいた高橋裕さん(元調教師)が調教助手になっているという話を耳にする。思ってもいないことで「え? 競馬場に入れるんだ!」ってびっくりして訪ねていった。
すると1978年に美浦トレセンがオープンするにあたって厩舎の数を7つ増やすことになり、免許を取ったばかりの山崎彰義厩舎が開業、馬に乗れる大学卒の助手を探しているという。馬術自体あまり上達はしなかったけれど、渡りに船とはこのことで一も二もなく飛びついた。
就職が決まったので獣医師の資格はどうでもよかったが、親の手前もあったので一夜漬けで国家試験を受けたら合格した。だから獣医といっても、実は診療行為は一度もやったことがないペーパードクター。でも、獣医師さんの言うことなどはよくわかるから、まんざら無駄でもなかった。何より周りの人が「獣医先生」と勝手に尊敬してくれる(笑)。
人生の節目で運に恵まれ、要領や巡りあわせがよかったとつくづく思う。強い運を持っているというのは競馬に携わる者にとってはとても大事なことだ(笑)。