ノーザンファームの吉田勝己社長とトイレでお会いしなければ…(国枝栄・調教師)
1978年に調教助手として競馬界に入り、1989年に調教師免許を取得。以来、アパパネ、アーモンドアイという2頭の牝馬三冠を育てた現役最多勝調教師・国枝栄氏が、2026年2月いっぱいで引退する。国枝調教師が華やかで波乱に満ちた48年の競馬人生を振り返りつつ、サラブレッドという動物の魅力を綴るコラム連載「人間万事塞翁が競馬」から、調教師試験合格から、初めてのGI勝利に至るまでについてお届けする。
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私の師匠である山崎彰義先生はあまり成績にこだわるタイプではなく、助手時代にはGIに出るような華々しい活躍をした馬とは縁がなかった。それでも開業の時からずっと一緒にやっていたこともあって、他の厩舎に移るというようなことは考えなかったな。ギンザンというアラブ馬は13勝もしたし、タケノテンジンは重賞でビンゴガルーやサクラシンゲキなんかといい勝負をしていた。
だから物足りないということはなかったけれど、1984年に海外留学をさせてもらってイギリス競馬の空気を感じたあたりから調教師を本格的に目指すようになった。1989年に3回目で調教師試験に合格。一緒に受かったのは吉永正人さんや嶋田潤さん、岩元市三さんなど騎手として活躍した方ばかりだった。
開業は1990年1月、初勝利は開業から2か月ほどたった頃。前年にダービーにも出走したリュウカムイという馬で900万(今の2勝クラス)特別。鞍上はデビュー5年目の横山典弘騎手。この年最初の重賞・金杯を勝ち、前週にはメジロライアンで皐月賞トライアルの弥生賞を勝っており、若手のホープとして関東厩舎の期待を集めていた。ちなみにこの32年後に通算1000勝を達成した時の鞍上は息子の横山武史騎手。こんな巡りあわせもいかにも私らしいのではないか。
1年目は8勝、2年目は9勝しかできなかったけれど、当時はまだ戦前生まれの調教師がリーディング上位を占めていて、30代半ばの私などは若手中の若手。馬主さんや牧場と厩舎との繋がりが強かった時代だから、助手から調教師になったばかりでは、しょうがなかった……というのは言い訳で、もっと活発に動いていればよかったのだろうけれど、その辺はちょっと甘かったんだな。