戦中は陸軍中央から自身の作戦を臆病だと非難され、投降についても「捕虜」の汚名を着せられた一方、戦後は沖縄の住民を巻き添えにした南部撤退を主導した作戦参謀として責められた。
1977年6月22日付の沖縄タイムス記事は、「沖縄戦33回忌」と題して、八原に直接取材した様子が綴られている。33回忌の感想を問われ、
「那覇市史の戦時記録を読んだが、ほんとうに申し訳ないと思う。われわれとは違う民間の方々の苦労のすさまじさに、最後まで読み通せなかった」
と語り、「終始沈痛なおももち」で「深々と頭を下げていた」という。八原は自らが立てた作戦が実現できないまま“沖縄を「捨て石」にした悪しき日本軍”という図式の中で、沖縄住民も本土も救えなかったことへの自責の念に苛まれていた。
それでも、〈旧陸軍の職業軍人の間では……合理主義的精神を強く持っていた数少ない一人〉(稲垣氏前掲書)である八原が、「特攻」や「玉砕」「自決」を是とする大本営の理不尽に対して、自分の信念を曲げることはなかった。自著では〈現実を遊離して、夢を追う航空至上主義と、はだか突撃で勝利を得んとする地上戦術思想とに対する懸命な抗争〉だったと大本営や上官らを猛烈に批判している。
著書『昭和の参謀』で、八原の功績に再び光を当てた読売新聞文化部の前田啓介氏はこう分析する。
「作戦参謀としての八原の合理主義が、大本営の精神主義に屈した結果が沖縄戦の悲劇を招いたとも言えます。軍や政府にも八原のように理知的で的確な情勢判断ができる人材がいたはずですが、追い詰められた状況では、その本領を発揮することができなかった。合理性や冷静な判断がなぜ奪われてしまうのか、問われ続けなくてはいけないと思います」
「玉砕」を否定しながら、甚大な被害を回避できなかった作戦参謀の生き様から学ぶことは多い。
【プロフィール】
八原博通(やはら・ひろみち/1902-1981)鳥取県米子生まれ。陸士35期、陸大41期。恩賜の軍刀を下賜され、米国留学。ビルマ方面軍参謀などを歴任。戦後は故郷で行商に従事。
【参考文献】八原博通著『沖縄決戦』中公文庫、稲垣武著『沖縄 悲遇の作戦 異端の参謀八原博通』光人社NF文庫、前田啓介著『昭和の参謀』講談社現代新書
※週刊ポスト2025年8月8日号