外交官・宮川舩夫の半生を辿る(写真/遺族提供)
敗戦という結末を知る後世の人間からすれば、無謀な戦争へと突き進んでいった日本軍や政府を批判するのは容易い。しかし、国全体が「玉砕」へと向かう中にあっても、悲劇を回避すべく奔走した軍人・官僚が数多く存在した。彼らの足跡を、今を生きる日本人は忘れてはいないか──。その一人、外交官、宮川舩夫(みやかわ・ふなお)の半生を辿る。
今から80年前の1945年8月9日未明、ソ連軍が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して満洲国への侵攻を開始した。ソ連側から、この「日ソ戦争」の宣戦布告がなされたのは、前日8日のことであり、まさに現代のウクライナ侵攻にも通じる“奇襲”だった。
日ソ中立条約は、同年4月にソ連のモロトフ外相から「不延長」が通告されたが、その時点でも「明年[1946年]4月期限満了後延長しない」とされており、翌年までの猶予があるはずだった。にもかかわらず、それらの約束も、独裁者スターリン首相の一方的な裁断により反故にされたのだった。
同条約が1941年に締結された時の映像は、今も簡単に見ることができる。かつて日本ニュース映画社が撮影したもので、NHKアーカイブスで「日ソ中立条約」と検索すると、松岡洋右(ようすけ)外相とスターリン首相の調印式の場面が映し出される。わずか1分ほどの短い動画だが、松岡外相のすぐ横で、通訳や補助をする小柄な人物が見てとれる。当時、モスクワの日本大使館の参事官だった宮川舩夫──戦後80年を経た現在、ほとんどの日本人はその名前を知らないが、この宮川こそ、日ソ交渉を陰で支え続けたキーパーソンだった。
宮川は帝政ロシア時代から活躍したノンキャリア外交官で、1925年の日ソ基本条約(国交樹立)でも通訳や交渉に奔走。〈外務省きってのロシア通〉として歴代の日本大使に重用され、〈ソ連関係においては生き字引〉〈大使にとっては秘書官兼情報係、指南役でもあった〉(「霞関会(かすみがせきかい)会報」所収の天羽英二(あもうえいじ)論文)。
その宮川が「最後の御奉公」として臨んだのが、ソ連軍の満洲侵攻から10日後、玉音放送から4日後の8月19日に、ソ連沿海州の寒村ジャリコーヴォ村で行なわれた「日ソ停戦交渉」だった。
在ハルビン日本総領事となっていた宮川は、秦彦三郎・瀬島龍三の2人の関東軍幹部とともに、通訳として交渉に参加。だが、「停戦交渉」とは名ばかりで、満洲攻撃を指揮している極東ソ連軍の5人の司令官たちが顔を揃えた、屈辱的な停戦条件の「示達(じたつ)」だった。
結果的に、宮川は終戦に至る日ソ交渉の“始まりから終わりまで”を現場で支え続けた唯一人の外交官となったのだった。