陸軍参謀次長・多田駿の半生を辿る(写真/遺族提供)
敗戦という結末を知る後世の人間からすれば、無謀な戦争へと突き進んでいった日本軍や政府を批判するのは容易い。しかし、国全体が「玉砕」へと向かう中にあっても、悲劇を回避すべく奔走した軍人・官僚が数多く存在した。彼らの足跡を、今を生きる日本人は忘れてはいないか──。その一人、陸軍参謀次長・多田駿(はやお)の半生を辿る。
日本に無条件降伏を求めたポツダム宣言には、米英首脳に加えて中国・蒋介石主席も名を連ねている。同宣言を受諾(1945年8月)したことは、1937(昭和12)年の盧溝橋事件から始まった「日中戦争(日支事変)」の敗戦をも意味した。
戦史において陸軍参謀次長・多田駿の名前が大きく取り上げられるのは、1938年1月15日の「大本営政府連絡会議」でのことである。開戦まもない日支事変の今後の方針をめぐり、首相、外相、陸海軍の大臣・総長・次長らが議論。その席で多田は、蒋介石との和平交渉打ち切りに傾いた政府方針に反発する。他の閣僚が、政府不信任なら内閣総辞職するしかないと答えたのに対し、涙ながらに中国での「戦線不拡大」を訴えたのだった。
〈次長曰く「明治大帝は朕に辞職なしと宣(のたま)えり。国家重大の時期に政府の辞職云々は何ぞや」と声涙(せいるい)共に下る〉
もともと多田は、陸軍の中で「支那通」軍人として認められ満洲国軍の育成にも従事。1935年8月には、天津の支那駐屯軍司令官に就任した。この司令官時代に、多田は現地の中国人と在留日本人との衝突を避けるため、「対支基礎的観念」なる文章をまとめていた。そこでは、たとえば中国側に資本や技術、仕事を与えて、「生活の余裕」をもたらすべきだと説く。
〈搾取主義を排し「与うる」主義を採るべし
日支経済提携の根本は共存共栄にして、共存共栄の根本は搾取主義を排するに在り。今や疲労困憊瀕死の憐(あわれ)むべき境遇に在る支那民衆を救済するためには、まず「薬」と「栄養」とを与うるの必要あるは当然なり〉
だがその一方で中国人への警鐘も忘れていない。
〈職業的親日派を排撃すべし
支那には、日本の学校の出身にして日本語をよくし、金儲けまたは生活の資とせんとする自称親日家の一団あり。[中略]彼らの得意の日本語と日本知識は日本のために計るにあらず、自己のために計るものにして、日本のため必ずしも有利なる存在にあらざるなり〉
〈不純なる権謀術策は王者の態度にあらざるのみならず、斯術(しじゅつ)にかけては結局彼等[中国人]の敵にあらざるなり。[中略]吾人[ごじん・我々]は宜しく公明正大堂々の陣をもって病源を手術すべきなり〉
多田は、中国の文化に造詣が深く、相手に敬意を払いつつも、権謀術策に長けた中国人への注意を怠らなかった。それは、多くの現場を踏んできたからこそのリアリズムでもあった。