洞窟に潜む日本兵を包囲する米兵たち。八原博通は当初から「持久戦」を提案していた(ullstein bild/時事通信フォト)
敗戦という結末を知る後世の人間からすれば、無謀な戦争へと突き進んでいった日本軍や政府を批判するのは容易い。しかし、国全体が「玉砕」へと向かう中にあっても、悲劇を回避すべく奔走した軍人・官僚が数多く存在した。彼らの足跡を、今を生きる日本人は忘れてはいないか──。その一人、陸軍高級参謀、八原博通(やはら・ひろみち)の半生を辿る。
1945(昭和20)年3月末から約3か月間にわたって続いた米軍との地上戦で、軍民合わせて約20万人が犠牲になった「沖縄戦」。惨敗を喫した陸軍「第32軍」は、その前年に編成されたばかりの急ごしらえの部隊で、同軍司令部の執行部で唯一人生き残ったのが、高級参謀の八原博通だった。
八原を「忘れ去られた」と形容することには、異論があるかもしれない。戦後、八原の著書『沖縄決戦』(1972年読売新聞社刊)が刊行され、八原を含めた第32軍の戦いを描く映画もつくられた(岡本喜八監督『激動の昭和史 沖縄決戦』1971年東宝製作)。1980年代半ばにはジャーナリスト稲垣武氏による八原の評伝『沖縄 悲遇の作戦』(新潮社刊)も出版されている。
だが、今年6月、終結から丸80年となる沖縄戦を報じた新聞・テレビなどの主要メディアでは、第32軍を指揮した牛島満司令官や長勇(ちょう・いさむ)参謀長(いずれも沖縄戦で自決)の名は挙がっても、八原のことに言及した論説はほとんどなかった。
八原は、沖縄戦の作戦参謀として「持久戦」を主張した。自軍の兵力不足に加え、米軍に制空権・制海権を握られている以上、無謀な攻撃はせずに、沖縄本島南部に築かれた堅固な地下要塞に立てこもり、接近してくる敵を狙い撃ちにすることで米軍を疲弊させる「戦略持久」の作戦をとった。
しかし「特攻」などの航空作戦に固執する大本営は、上陸米軍が占領した飛行場の奪回を命じ、攻勢に出ようとしない第32軍を批判する。牛島・長らはその命令に従い、八原の作戦を放棄した。結果的に日本軍は一挙に戦力を失う惨敗を喫し、それ以降撤退を繰り返す中で、多数の住民までも巻き込んだ“玉砕”へと追い込まれていった。
自決前の牛島・長から、本土への帰還を命じられた八原は、数十名の避難民がいる洞窟に逃げ込むも、米軍に包囲される。それでも易々とは屈しない。2年間の駐米勤務で身につけた英語で避難民ともども米兵に降参を伝え、さらに自身は民間の英語教師だと身分を偽って本土への脱出を図った。だが、陸軍参謀と暴露され、収容所に入れられた。