ハードボイルドの空気感を意識した
「顔のない死体で僕がまず思い出すのは笠井潔さんの『バイバイ、エンジェル』。首がない=身元不明という想定を微妙にズラしてくる論理の面白さがあったし、僕自身、本書を書きながら顔とは何か、人格とは何かについて一から考えさせられた。定番だけに魅力的な素材なんだと思います。
さらに意識したのが、ハードボイルドの空気感で、そのためには根は真面目な組織人の日野が1人で動く時間を作りたいし、バーで小洒落た会話もさせてみたい。だとすればどんな情報を誰がいつもたらすと最も自然かとか、結末は決めた上で行きつ戻りつしながら書き進めていきました」
やがて駒根市の現場に残された〈足紋〉から、身元不明遺体はその部屋の住人で元探偵の〈八木辰夫〉と判明。駒根署との連携役を鷹宮から内々に命じられ、入江に嫌味を言われつつも徐々に真相に近づく日野が、「なんでこんなことになったのか」「なぜ」「どうして」と事ある毎に呟く問いは、フーダニットからハウやホワイやホワットへと進化を重ねる推理小説の歩みとそのまま重なるかのよう。
「世の中の理不尽でままならない感じは、余韻として常に残したいと思っていて。
もちろん僕は推理小説を好きだから読むんですけど、最初は単に謎解きを楽しんでいたのが、自分も含めた人間の汚い部分や世の中の仕組みを知れば知るほど、犯罪やその動機に光を当てる小説としての深みがよりわかるようになった。
その深みは人間の多面性を描いてこそ生まれると思うし、伏線に関しても手がかりをただバラ撒くんじゃなく、物語の豊かさに寄与するような張り方を、僕の場合は泡坂作品に学んだんですね。単なる推理の道具ではなく、読んだ人が事件を超えた気づきや納得を得られるような伏線回収の見事さが、今でも僕の目標なんです」
真相の残酷さに比して、日野や彼の家族、隼斗達の造形が救いだ。鋭いわりに妙な冗談で外したりもし、お節介なのかクールなのか、底の知れない令和のハードボイルド探偵像を、少なくとも筆者は好もしいと思う。
【プロフィール】
櫻田智也(さくらだ・ともや)/1977年北海道生まれ。埼玉大学理学部分子生物学科及び同大学院修士課程修了後、食品会社勤務やデイリーポータルZのライターを経て、2013年「サーチライトと誘蛾灯」で第10回ミステリーズ!新人賞を受賞。2017年に同作を含む連作短編集で単行本デビュー、2020年に同じく昆虫好きの素人探偵・エリ沢泉を主人公とした『蝉かえる』で第74回日本推理作家協会賞(長編及び連作短編集部門)と第21回本格ミステリ大賞(小説部門)を受賞。江別市在住。166cm、61kg、A型。
構成/橋本紀子
※週刊ポスト2025年9月12日号