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【書評】『エレベーターのボタンを全部押さないでください』「また会いたくなる人」に出会ったような感覚が残る

『エレベーターのボタンを全部押さないでください』/川内有緒・著

『エレベーターのボタンを全部押さないでください』/川内有緒・著

【書評】『エレベーターのボタンを全部押さないでください』/川内有緒・著/集英社/1980円
【評者】松尾潔(音楽プロデューサー・作家)

 映画制作にも表現の領域を拡げるノンフィクション作家の最新エッセイ集。書名のユーモアが示すように、生活の断片をすくい上げながら、生きることの意味と意義を問いかける。

 良質なエッセイには、ふたつの系統がある。ひとつは、特権的な体験や稀有な見聞をもとに綴られたもの。川内の場合、国連職員としての経験や、世界の辺境を訪ね歩いた記録、あるいは家族の生と死にまつわる話などがこれに当たる。欧州や中米の地名がさりげなく登場し、読者を遥かな場所へと誘うとき、そこにあるのは異文化との出会いの驚きであり、個人史の深まりだ。だが単なる自慢話に堕すことがないのは、語り口が常に相手を見つめるまなざしに貫かれているから。外界を語りながらも、結果として彼女の内面の心象を描き出しているのだ。

 もうひとつの系統は、誰にでも起こりうる日常の出来事を、書き手ならではの感性と筆致で切り取ったものだ。本書で特に惹かれたのは、むしろこちらのエッセイ群かもしれない。好きな映画や本に出会った記憶。何気ない買い物の風景。些細なエピソードに著者の感動や発見がにじむ。なかでも向田邦子への言及には、ぼく自身も近著で触れたこともあり、勝手に親近感を抱いた。誰かと自分の感受性が時空を超えて共振する──こんな人生の真理を綴るとき、川内の筆は抜群の冴えをみせる。

 本書の魅力は、読者に「これは自分の話かも」と思わせる力にある。過剰に共感を誘う仕掛けに頼らず、川内有緒という個人の確かな手触りを通じて描かれるからこそ帯びる普遍性。的確な修辞で喜怒哀楽を積み上げる彼女の文章を読むのは、無駄のない動きでエレベーターの必要な階だけに手を伸ばすさまを見るような快感に満ちている。

 読み終えて「また会いたくなる人」に出会ったような感覚が残る。そういう本である。

※週刊ポスト2025年9月12日号

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