一方、李完用や閔元植はそれが身に染みてわかっていた。李完用は最初は高宗を説得できると考えていたようだ。それも当然で、日本は日清戦争に勝って朱子学体制の清国を撃破したからだ。ところが、高宗はそれでも考えを改めようとしない。
現代の日本人は、彼らはなんて愚かなのだろうと思うかもしれないが、日本でも朱子学が武士の心を呪縛していた幕末においては、アヘン戦争でイギリスが清国に圧勝したと伝えられても、日本刀や旧式の鉄砲で欧米列強に勝てると信じていた人々がいたではないか。いや、それが多数派であったではないか。彼らは開国して近代化しようと主張した勝海舟や坂本龍馬や高杉晋作を殺そうとしたではないか。朱子学の呪縛は、それほど強い。
しかし、日本は天皇という「平等化推進体」を上手く活用して、四民平等つまり「天皇の下の平等」という概念を確立して、東アジアで初めて民主国家への道を開いた。李完用はそれに着目し、とりあえず日本の傘下に入って平等社会を確立しようと考えた。だから「七十五年後の日本には李姓の総理大臣が出現する」と言ったのだ。「他に朝鮮を西洋近代化する方法があれば言ってみろ」というのが、李完用の思いだったろう。だが、高宗はどうしても説得に応じない。
たしかに、愛妻の閔妃を日本の差し金で殺されたという個人的憎しみはあったろう。だが、彼は朝鮮民族のリーダーなのである。民族の将来を考えるならば、日本のように朱子学体制を破壊して四民平等の社会にするしかない。だが、彼はそれがどうしても許せなかった。朱子学的価値観で言えば、韓国併合とは先祖代々守ってきた国を「日本ごとき」に「売り渡す」ことであり、ご先祖様に申し訳ない、そんなことはできない、ということになる。当然、その道を進める李完用は「売国奴」になる。
おわかりだろう。「三・一独立運動」なるものは、本当の意味の改革派である人々にとっては改革を潰す「狂気の沙汰」であったのだ。しかし、日本に対する根強い不満があったのも事実で、それがあったからこそ暴動は朝鮮半島全土に波及した。そのコアの部分は「日本ごときに指導されたくない」という朱子学に基づくものだったが、暴動がエリートだけで無く庶民まで広がったのには、日本の朝鮮統治のやり方に庶民階級が反撥したからである。
それが根強い不満ということだが、具体的には「重箱の隅をつつく男」初代朝鮮総督・寺内正毅が「朝鮮人は劣等民族」とみて、それこそ「掃除の仕方」まで細かく「指導」したことだ。
なぜ寺内がそうしたのかと言えば、日本の元老のなかでもっとも穏健な形で併合問題を処理しようとしていた伊藤博文が、ほかならぬ朝鮮人・安重根によって暗殺されたからである。以前述べたように、安重根という男は人格高潔でなによりも真面目な人物だったが、現実認識は標準レベル以下で、あの時点で伊藤を暗殺することが朝鮮民族にとって得か損かということが全然わかっていなかった。だから、「日本の野望を阻止するため」という意図のもとに伊藤を銃撃した。
伊藤は穏健派の最後の歯止めともいうべき自分が死ねば、強硬派の寺内正毅たちが勢いを得て強引な併合に踏み込むことがわかっていたから、「(安重根は)馬鹿な奴じゃ」と言い残して死んだ。決して差別的な言葉では無い。むしろ、「いまわしを殺してどうするのだ。お前の意図とは逆の方向に事態は動くぞ」という同情に近い言葉だっただろう。
そして、まさに強硬派は「政治状況もわからずにただやみくもに伊藤公を暗殺するような愚かな朝鮮民族は、一から叩き直す必要がある」と考え、強権的な韓国併合に踏み切り、寺内は三代目韓国統監から初代朝鮮総督に就任し、徹底的な管理統制を行なった。
この「三・一騒擾」では、李朝とは別の形の日本の圧政に対する不満が爆発したのである。そこで閔元植は、独立を求めること自体は「在外朝鮮人の扇動に由来した」「狂気の沙汰」としたが、「朝鮮人が、日本の統治政策に深い不満を抱いていることは確か」と言わざるを得なかったのである。
では、この「三・一」を「煽動した」「在外朝鮮人」とは、いったいどんな人々だったのか?
(第1469回に続く)
【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『真・日本の歴史』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。
※週刊ポスト2025年10月17・24日号