作家の井沢元彦氏による『逆説の日本史』
ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。今回は近現代編第十六話「大日本帝国の理想と苦悩」、「大正デモクラシーの確立と展開 その3」をお届けする(第1468回)。
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ほとんどの韓国の歴史学者、そして日本の左翼歴史学者が賛美してやまない朝鮮半島の「三・一独立運動」。それが起こったそもそものきっかけは、なんだったのか? それは、運動が起きた年の一月に死去した李太王(大韓帝国前皇帝高宗)は、じつは日本によって毒殺された、という噂だった。
しかし、ここでよく考えていただきたい。李太王が本当に毒殺であったとしても、それが反日暴動のきっかけになるためにはある「前提」が必要だ。それは、彼が「よい王様だった」という前提である。ここで、あらためて問おう、李太王とは、朝鮮民族にとってどんな君主だったか?
彼は西洋近代化どころかあらゆる改革を認めず、あるときはロシア、またあるときは清国の顔色を窺い、一方で妻の閔妃の膨大な浪費を黙認して国民を苦しめた。その閔妃は、心から国家の発展を願っていた「真の忠臣」金玉均を「極刑」にした。
その後、日本が清国との戦争に勝つことによって朝鮮国は一千年以上の中国との君臣関係から解放され独立した。そのときに建てられたのが、いまもソウルにある独立門である。この独立門に掲げられた「扁額」は、あの総理大臣・李完用の揮毫による。
『逆説の日本史 第27巻 明治終焉編』でも詳しく述べたが、ここはもともと迎恩門といって朝鮮半島の歴代王朝の国王が代替わりの際に中国皇帝の使者を迎え、その前で新国王が額を床に打ちつけるという屈辱的な拝礼「三跪九叩頭」を行なっていた場所であった。「迎恩」という言葉も、「偉大な中国の慈悲に感謝せよ」という意味だ。だからこそ朝鮮人民は、大韓帝国として独立が認められたことに狂喜乱舞して迎恩門を叩き壊し、その上に独立門を築いたのだ。ちなみに、この事実をいまの韓国人はまるで知らされていない。
とにかく、朝鮮民族は曲がりなりにも独立して大韓帝国を築いたのだが、肝心の皇帝高宗は率先して西洋近代化に努めるべきなのに、なんら変えようとしない。このままではロシアの餌食になるかもしれないと考えた「真の忠臣」たちは、日本が日露戦争に勝ったこともあり日本の「弟子」になるという方針を決めた。だがそれは、あくまで前近代的圧政を続けたい、忠孝を絶対とする朱子学の権化である高宗にとっては許しがたい暴挙である。
もうおわかりだろうが、客観的に見れば前近代的な朝鮮民族のためにならない政治体制を、高宗自身はそれを圧政では無く国の理想の姿だと考えていたのが最大の問題なのである。だから、李完用のように世界を知っていた家臣たちは目先の忠節よりも朝鮮民族の将来を考え、とりあえず大韓帝国の外交権を日本に委ねる形を取った。できるだけ穏やかに物事を進めようとしたのである。