元ソープ嬢という異色の経歴を持つ真言宗の尼僧・野寄覚令氏
いくつになっても性に貪欲でいたい。そう願ってしまう自分は、欲望に取り憑かれた人間なのだろうか……。そんな悩みに対して、煩悩を肯定し、「男女の性愛は菩薩の境地である」と説く僧侶がいる。元ソープ嬢という異色の経歴を持つ真言宗の尼僧・野寄覚令(のより・かくりょう)氏だ。煩悩との正しい向き合い方を野寄氏が説法する。
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年齢を重ねれば落ち着くものだと思っていたのに、どうしても性欲に振り回されてしまう──。僧侶である私のもとには、こうした相談が多く寄せられます。
その悩みの根本には、性欲はいけないもの、汚れたものだとする漠然とした思いがあるようです。しかし、単刀直入に申し上げれば、それは逆。性欲は決して否定すべきものではありません。
真言宗の経典「理趣経」では性欲を肯定的に捉え、仏の智慧へと昇華させるものだとする教えを説いています。開祖である空海は、真言密教の根本経典としてこの理趣経の教えを大事にしました。
煩悩として否定するのではなく、男女の交わりを清浄なものと捉え、性欲と正しく向き合う。「死ぬまでSEX」はしていいもの、むしろ目指すべきものだと私は解釈しております。
なぜそう言えるのか。核心に触れる前に、「お前は誰やねん」という読者のみなさまの疑問にお答えするため、少し身の上話をさせてください。
私は30歳で出家し、まだまだ若輩の尼僧ですが、人生の大半は性から逃れられない「苦」のなかにありました。
狭い団地暮らしで、物心つく前から父による暴力的な仕打ちを受け続けてきました。無理やりキスをされ、性器に触られ、セックスの真似事のような姿勢を取らされ……。父が家に帰ってくる足音が聞こえただけで、口から心臓が飛び出そうになる、まさに地獄の日々でした。
しかし、家出をしても連れ戻されること、母や弟たちに怒りの矛先が向くことなどを総合的に考え、18歳になるまで“脱獄”を我慢しました。
ようやく家を出たものの、当時の私は学歴も人脈もなし。仕事というと水商売しか思い浮かばず、最初の結婚生活もすぐに破綻して、風俗の世界に辿り着きました。
振り返れば、父からくる男性不信の一方、あの不可解な強い性衝動がいったいどこからくるのか、その正体を知りたいという興味もあったのだと思います。
