AONトリオで唯一予選を通過、ホールアウト後に青木功(左)と握手する尾崎将司さん(兵庫・広野GC)(時事通信フォト)
「ライバルはお互いに相手のことを納得している。存在を認めて、相手がこうならオレはこういう形で勝っていく。そんなライバル関係のお手本みたいな関係だった。1981年から4年間、尾崎が大スランプに陥った。
尾崎が地方のオープントーナメントしか勝てなくなった時だが、自宅でやっていた尾崎の誕生会に青木夫妻が予告もなく顔を出している。ゴルフ場では“このヤロー”“絶対に負けるもんか”とライバル心むき出しでやっているが、どこかで相手の存在を認めていた」
この2人の関係に変化は起きたのは、青木が1983年に米ツアーの「ハワイアンオープン」で優勝した時からだと三田村氏はいう。
「それまで尾崎は青木については“負けたくないライバル”という存在だった。尾崎はその試合をロサンゼルスでのジャンボ軍団の自主トレ中に見ていた。私は自主トレの取材に訪れていたが、当時、尾崎の口から“オレの頭の中から青木功は消し去る”という言葉を聞いた。つまり、青木が、尾崎がというのではく、それ以降はライバルではなく、ひとりの強い選手だという認め方をして、その時に初めて自分のことだけを考えるようになった。それで尾崎はさらに強くなった」
ジャンボが40歳(1987年)以降に9回賞金王になっているが、40歳までの優勝回数(48勝)よりも40歳以降の優勝回数(64勝)の方が多い。これはジャンボが青木をライバルではなく一人の強い選手と認めることで自分のゴルフができるようになったからだという。
(後編につづく)
◆鵜飼克郎(ジャーナリスト)
