永六輔一覧

【永六輔】に関するニュースを集めたページです。

黒柳徹子と20年交際秘話
黒柳徹子、さだまさしと突然“共演NG”の謎 さだの鋭いジョークが原因か
「最後の共演から5年半以上が経っていて、今後も共演の予定がないと聞いています。あれだけ蜜月だった黒柳さんとの間に何があったのか? トラブルさえ疑われています」(テレビ局関係者) テレビ放送の草創期から現在まで表舞台に立ち続ける黒柳徹子(88才)に、最近、いわゆる“共演NG”の相手が増えているという。自ら「NG認定されている」と暴露したのが、有吉弘行(48才)だ。5月15日放送の『有吉ぃぃeeeee!そうだ!今からお前んチでゲームしない?』(テレビ東京系)で、過去に黒柳に「クソババァ」とあだ名をつけて以来、共演NGにされていると明かしたのだ。 さらに、フワちゃん(28才)も2020年に『徹子の部屋』(テレビ朝日系)に出演した際、会話がまったく噛み合わず、黒柳から「もう来なくていい」と宣告され、その後、テレビ番組を含めメディアで同席したことは一切ない。 しかし、冒頭のテレビ局関係者が口にしたのは彼らのことではない。その相手もまた、芸能活動歴の長い大御所だ。「さだまさしさん(70才)です。黒柳さんとは2017年、永六輔さん(享年83)の一周忌イベントで顔を合わせたのを最後に、一緒にお仕事をしていません。テレビでの共演は前年の2016年が最後です。それまでさださんは『徹子の部屋』の常連だったのに、急に出演がなくなってしまいました」(前出・テレビ局関係者) さだはこれまで『徹子の部屋』に14回も出演し、黒柳の“盟友”として知られてきた。本来、同番組は黒柳がMCを務めるトーク番組だが、さだがMCを担当して黒柳をゲストに迎える『まさしの部屋』なる特別企画が放送されたことがある。それも一度きりではなく3度も。 また、2006年と2015年には、『徹子の部屋コンサート』が開催されたのだが、黒柳が司会を務め、さだは主要メンバーとしてステージに立った。2011年には東日本大震災の被災者を支援するイベントでも共演している。 共通の友人も多い。永さんはその代表格だ。2016年11月、さだは永さんが作詞した曲をカバーしたアルバム『永縁~さだまさし 永六輔を歌う~』を発売した。このときも黒柳は朗読で参加した。それほどの蜜月ゆえ、突然、共演がなくなったことに違和感を覚える関係者は少なくない。前出のテレビ局関係者が声を潜める。「テレビでの最後の共演は2016年12月5日に放送された『徹子の部屋』。さださんが出演し、3回目となる『まさしの部屋』が放送されたのですが、この内容に問題があった可能性があります。さださんが黒柳さんに、永さんや作曲家の中村八大さん(享年61)との“男女の仲”について質問したのです。気心の知れたさださんだから聞けたことで、黒柳さんも笑っていました。 これまでも、さださんの鋭い“ジョーク”がウリの『まさしの部屋』でしたから、いつも通りの光景に見えました。ただこのときは何かが違っていたようです」 ちょうどその年に、黒柳はブレーンとしてある男性を迎え入れていた。「ビーズの貴公子」こと、田川啓二さん(63才)だ。「オートクチュールを手がけるビーズデザイナーです。父も兄もデザイナーという芸術一家に生まれ育ち、2002年に『徹子の部屋』に出演しています。その共演をきっかけに、田川さんは黒柳さんの衣装を手がけるようになり、全国の老舗百貨店で一緒に作品展を開催するほどの深い関係になりました」(芸能関係者) そして2016年4月、田川さんは突如、黒柳の事務所の代表取締役に就任。さだとの最後の共演の8か月前のことだ。以降、田川さんは黒柳の仕事現場への同行から出演交渉、キャスティングにもかかわるようになったという。「田川さんが黒柳さんの事務所の代表になって以降、黒柳さんはインスタグラムを始めたり、若い読者層を持つファッション雑誌に出るようになりましたが、それも田川さんのアイディアだったようです。彼は番組収録にも付き添い、黒柳さんの専属プロデューサーとして抜群のセンスを発揮していったのです。 だからこそ、さださんの“発言”が引っかかったのかもしれません。さださんは最後の『まさしの部屋』で、先の質問以外に“黒柳徹子保存会”を立ち上げて、自分がその初代会長だと口にしたんです。田川さんも撮影現場で聞いていたはず。これが“共演NG”のきっかけだったのでは?と分析する人もいるようなんです」(前出・芸能関係者) 田川さんは2018年8月、黒柳の事務所の代表を信頼する友人に任せ、代わりに自身は「一般財団法人黒柳徹子記念財団」を設立し、その代表理事に就任した。黒柳は着物、食器、工芸品など多くの美術的価値のあるコレクションを持つ。それらを後世に残すために財団を設立し、「黒柳徹子美術館」を建設する意向を田川さんは当初から示していたという。 美術館の建設となれば、それなりの建設費が必要になる。黒柳は財団の設立前年、東京・港区に所有していたマンション2戸を売却。2004年にも中央区のマンション1戸を手放しており、3戸の売買価格は約6億円ともいわれている。「おそらく田川さんが社長に就任した当初から、不動産の売却や財団の設立などの計画を描いていたのでしょう。さださんが話した“黒柳徹子保存会”は、その計画外のもので、田川さんにとっては寝耳に水だったはず。“保存会”は実態があるのか定かではなく、冗談半分のようにも思えますが、田川さんはじめ黒柳さんの周囲の人たちにとっては冗談には聞こえなかったのかもしれません」(前出・芸能関係者) 財団設立と美術館は黒柳と田川さんにとっては悲願のようで、苦労しながら大事に育てている計画のようだ。実際、今年5月5日に配信された黒柳のYouTubeチャンネルで、田川さんは美術館計画について黒柳とファンにこう報告した。「ちょっと前進しました。“いつぐらいまでにはできるんじゃないか”というところまでは来ている。でもまだ皆さんにはお伝えできない」 2002年の共演から今年で20年を数える黒柳と田川さんの関係は、ますます強固になっているように見える。「美術館など黒柳さんの功績を残していく動きとともに“生前整理”が進んでいるように見えます。そんな中、黒柳さん本人というより周囲のかたの意向もあって共演者も選ぶようになっているのかもしれません。ただ、黒柳さんとさださんとのかけ合いは2人のあうんの呼吸で成り立っていました。今後見られないのはあまりに惜しいですね」(前出・芸能関係者) 共演NGは黒柳の晩節を汚さないための苦肉の策なのか、それとも……。※女性セブン2022年7月7・14日号
2022.06.25 07:00
女性セブン
永六輔さんとの思い出を矢崎泰久氏が振り返る
永六輔さん『上を向いて歩こう』の大ヒットに深く煙を吸い込んだ夜
 世の中の健康ブームとともにタバコ文化が隅に追いやられて久しいが、昭和という時代を語るのにタバコの煙は欠かせない。昭和の大スターたちは紫煙をくゆらせながらどんな表情を浮かべ、どんな言葉を交わしていたのか。雑誌『話の特集』の編集長、矢崎泰久氏が永六輔さん(享年83)との思い出を振り返る。 * * * 永六輔さんと僕は同じ1933(昭和8)年生まれ。出会ったのは安保闘争の2年前の1958年でした。永さんが若手の文化人たちと「若い日本の会」を立ち上げて安保改正に反対しているのを、僕が新聞記者として取材に行ったのが最初です。だから、かれこれ60年近く付き合ってきたことになりますね。〈雑誌『話の特集』の編集長、フリージャーナリストとして数多の作家と交流のあった矢崎泰久氏。とくに永六輔との親交は深く、著書『タバコ天国 素晴らしき不健康ライフ』(径書房刊)にも永にまつわるエピソードが登場する〉 愛煙家は銘柄にこだわる人が多いんです。僕は若い頃はピース、今はチェ・ゲバラの名前を冠したキューバの『チェ(Che)』を吸っています。作家の野坂昭如は缶ピースでした。一方、銘柄にこだわらず、人に「一本」とねだる“お先タバコ派”といえば、永六輔、寺山修司、小松左京の3人でした。 小松さんは超が付くほどのヘビースモーカーで、2~3口で吸い終えるとすぐに次のタバコに火をつける。銘柄はショートホープと決まっていましたが、1箱10本入りだからすぐに空になる。あちこちのポケットに入れておいても、すぐに人から貰うしかなくなるというパターンでした。 寺山さんは若い頃からネフローゼという持病があったので、タバコを吸い込むことはできない。だけどカッコつけたいから、コートの襟を立て、白いマフラーを巻いてタバコに火をつける。紫煙に包まれる自分を演出していたんですね。 永さんの場合は、家族にも周囲にもタバコを“吸わない人”で通していました。でも、僕たち友達付き合いのなかで、誰かが美味しそうにタバコを吸っているのを見ると、自分も一服したくなるんです。 黙って僕のタバコを1本抜いては、下唇をちょっと突き出した愛嬌のある顔で火をつける。ほぼ吸ったと同時にむせるから、すぐに灰皿で火を消すことになり、こちらとしては“もったいないなぁ”と(笑)。そんなことがしょっちゅうでした。 僕も永さんも戦時中を軍国少年として過ごし、戦後になるとそれがすべて否定され、一気に“なかったこと”にされた。だから自由への憧れは、いまの人たちよりも強かった。なかでも永さんは自由に対する感度が高く、タバコをくゆらせるのはその表われのひとつだったように思います。 永さんは文化勲章を何度も断わりました。永六輔作詞・中村八大作曲で、梓みちよが歌った『こんにちは赤ちゃん』が大ヒットしたときは、皇居に招かれたんですよ。けれど、中村さんと梓さんだけが出席して、永さんは病欠。行くのが嫌だったんですね。それほど勲章や権威に抗い、自由でいたかった人だった。〈坂本九が歌って世界的な大ヒットを記録した『上を向いて歩こう』は、永の代表曲と思われているが、永自身には忸怩たる思いがあったという〉 60年安保闘争のとき、岸信介首相は日米安保条約を強行採決した。デモで国会を取り囲む学生たちが機動隊に弾圧され、そのなかで東大生の樺美智子さんが犠牲になった。その挫折のなかで、永さんが樺さんの死を悼んで書いたのが『上を向いて歩こう』でした。 坂本九さんが“ウヘッフォムフィテ アルコッホフホフホフ”と、あの独特の歌唱法で歌うのを初めて舞台の袖で聞いたとき、永さんは絶句し、坂本九さんに抗議したそうです。 それがあっという間に大ヒットし、全米チャートで3週連続1位。シャイだけど権力に対しては厳しい視線を向け続けてきた永さんとしては、仲間の女学生への鎮魂歌が流行歌として爆発的にヒットしてしまったことに、やりきれない気持ちを抱いていたのでしょうね。『上を向いて歩こう』が大ヒットしている頃、永さんがいつものように僕のタバコの箱から1本抜き取って、黙って深く吸い込んだときのことが忘れられません。 知人の女性によると、実は永さんは内緒でカバンにはタバコを忍ばせていたそうです。その女性が「ひとりぼっちの夜には永さんはきっとあんなふうにタバコを吸って星を眺めていたんだと思うわ」と言うのを聞いて、僕もそうだろうなと納得しました。※週刊ポスト2021年9月10日号
2021.08.27 11:00
週刊ポスト
NHKの女性アナの中には企業へ転職する人もいるという(イメージ)
毒蝮三太夫が語る“ババアいじり”秘話 「永六輔さんから学んだ」
 今から95年前、1926年12月25日に「昭和」は幕を開けた。そこから1934年(昭和9年)までの間に生まれた世代が、「昭和ヒトケタ」と呼ばれる。戦争の記憶をはっきり残し、成人してからは焼け野原からの復興と高度成長期のニッポンを牽引した。すでに鬼籍に入った人も少なくないが、自らの力で前を向き、上を向いて生きていこうとした彼らは、後の世代にどんな教えを残したのか──。(文中一部敬称略) 日本のテレビ草創期から数々の番組の作・構成を手がけ、作詞家としても数多のヒット曲を生んだ永六輔(2016年没、享年83)は昭和8年、東京・浅草の寺院に生まれた生粋の江戸っ子である。「面白がる天才で、“横道を行こう”ってよく言っていた。表通りはみんな知ってるから、路地を歩こう。ちょっと横道にずれるだけでずっと面白くなるからってね」 そう語るのは、『永六輔の土曜ワイドラジオTokyo』(TBSラジオ・1970~1975年)で中継コーナーを担当していた毒蝮三太夫である。「俺が『よくもまぁ、こんなにきったねぇババアが集まったなぁ』ってやるだろう? あれも永さんに煽られたんだよ。自分ではうまくいったつもりでも、永さんは、『感動は伝わったけど、詳細はわからない』って言いやがる。つまらなかったら中継の途中でも『それじゃまた後で』って曲をかける。悔しいねえ。だから俺は店の10メートルくらい手前からわざと下駄の音を響かせながら歩いてね、その街の様子を細かく説明しながら店に入る。そこで第一声が『きったねぇババアばっかりだな』(笑い)。どうすれば面白く伝わるのかを永さんに学んだ」(毒蝮) 永の代表作である『上を向いて歩こう』は安保闘争に敗れた若者を励ます歌であり、『見上げてごらん夜の星を』は夜間学校に通う高校生への応援歌として作られた。永の孫・永拓実は著書『大遺言』の中で、永自身が疎開先でひどいいじめを受けていたことが作詞の原動力となったのではないかと書いている。 長きにわたり永のラジオでアシスタントを務めたはぶ三太郎は語る。「永さんはいつでも弱い人たちの味方なんですよね。権力が大嫌いで、理不尽なことに対して絶対引かない。守るべきものを守る人だった。二歩も三歩も先を行っていたけれど、古いものを大事にしていました。だから新しいものを生み出すことができたんだと思います」 永と同じ時期、同じ長野県・小諸に疎開していたことから親交が深く6000もの楽曲を生み出したのが昭和7年生まれの作曲家・小林亜星(2021年没、享年88)である。毒蝮は小林とも忘れられないエピソードがあると語る。「千葉の松戸に新しいスーパーマーケットができるっていうんで、そのオープン記念に俺のラジオ中継が入ったの。亜星さんは同じセレモニーの別の企画で来てたんだけど、わざわざ俺のところに来てくれてね。亜星さんは松戸が初めてで『ワンカップ2本と週刊誌2冊買って、上野から常磐線に乗ってきた』って言うんだけど、上野から松戸って20分くらいだから、ワンカップを開けたとたんに到着。俺が『松戸はそんな田舎じゃねえ』ってツッコんで大盛り上がりだった。変なところから才能をひねりだすのが永さんなら、才能を出し惜しみしないのが亜星さんだった」 永は晩年、前立腺がんやパーキンソン病と闘いながらラジオ番組への出演を続けた。「病室から中継したこともあるし、最後の頃はスタジオに来てもひと言、ふた言だけ。だけど永さんはそこにいるだけでいいんだ。そこにいるだけでリスナーは喜ぶ。『喋るのはひと言でもいいから、そこにいてくれ』って言ったら涙を流して喜んでいました」(毒蝮)※週刊ポスト2021年7月30日・8月6日号
2021.07.20 11:00
週刊ポスト
戦後日本のポップカルチャーを生んだ「三木鶏郎(トリロー)」
高田文夫氏が語る 都会っ子の文化を牽引したポップカルチャーの巨人
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、1956年から1961年にニッポン放送で放送されたラジオ番組「トリロー・サンドイッチ」の音源がみつかった三木鶏郎さんについてつづる。 * * *「三木鶏郎(トリロー)」ときいて「ああ、あの人」とすぐに分かるのは60代、70代の人達だろう。戦後日本のポップカルチャーを生み出し創った巨人である。 私が学生時代せっせとネタのハガキを送っていたのが永六輔。よくラジオで読まれ、謝金のようなものももらっていた。その永六輔が子供の頃(相当古い話だ)、人気番組・NHKの『日曜娯楽版』にいつも社会風刺のコントなどを投稿し、三木トリローから誉められていた。中学時代から採用されていたというから相当の才能だ。高校から大学時代など「放送作家」として堂々とNHKに出入りしていたというから早熟の天才だ。 トリローは「冗談工房」という集団を作り、クリエイター達を集め、NHKから新しく出来た民放へとどんどん仕事を広げていった。門下生には〈作家部門〉で永六輔、神吉拓郎、野坂昭如、伊藤アキラ、キノ・トール、能見正比古、五木寛之ら。〈作曲部門〉で神津善行、いずみたく、桜井順、CMソング等歌う〈歌手部門〉に楠トシエ、中村メイ子、〈俳優部門〉には三木のり平、千葉信男、丹下キヨ子、小野田勇、河井坊茶、〈鶏郎楽団〉がジョージ川口、小野満、鈴木章治と、キラキラして胸躍るクリエイティブなアーティスト集団である。 CMソングはきけばすぐに分かる耳になじんだものばかり。「ワ・ワ・ワ輪が三ツ」「明るいナショナル」「ジン・ジン・仁丹ジンタカタッタッタタ」「うちじゅうでみんなキリン、キリン」「アスパラでやりぬこう」「クシャミ3回、ルル3錠」膨大な量の作品が残っている。作曲家として、コピーライターとして放送におけるコント作家の元祖として大嫌いな戦争が終わってパッと自由に花開いた都会っ子の洗練された文化なのだ。 名前だって実は大好きな「ミッキーマウス」からの三木、若き日3人でやっていたので「トリオ」、「ミッキーのトリオ」で「三木トリロー」という洒落だ。そこでその「三木」をくれと言ったのが、私が喜劇人の中で今でもNO.1だと思っている芸の神様・三木のり平。 そんなこんなで──ニッポン放送から古い番組の音がみつかったという。一方、鶏郎の資料を管理している研究所から、なんと「72歳の時のトリローに35歳の大滝詠一がインタビューしている音がある」と言う。 で、永六輔の命日に当る7月7日、私の進行で『冗談音楽の怪人・三木鶏郎』の著書のある泉麻人と音楽家・鈴木慶一で2時間番組を録音。放送は7月20日(火)18時30分から20時30分『三木鶏郎とニッポン放送』きいて下さい。イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2021年7月30日・8月6日号
2021.07.20 07:00
週刊ポスト
爆笑問題、高田文夫が絶賛 山田雅人「絡みにくい芸」の真髄
爆笑問題、高田文夫が絶賛 山田雅人「絡みにくい芸」の真髄
「日本一、絡みづらい芸人がこの人ですよ!」──さる10月9日金曜の夜、お笑いライブ『タイタンライブ』および『爆笑問題withタイタンシネマライブ』10月公演(東京・時事通信ホール)のエンディングトークで、爆笑問題の太田光が笑いながらゲストを紹介した。それは山田雅人。上方笑芸界のご意見番、上岡龍太郎をして「こんなアホな芸人はおらん、最高ですわ」と言わしめた男である。 山田は2009年から、長嶋茂雄と稲尾和久の名勝負、永六輔や藤山寛美などの人物伝をひとり語りするライブを演じ続けている。来る10月23日に上演する彼の最新作が「太田光物語」だ。その公演には太田本人も参加するとあって、爆笑問題のライブのゲストに招かれたのだ。 その夜のライブは新型コロナに感染、療養していた田中裕二の復帰漫才披露の場でもあった。いつもはどんなゲストに対しても無理くり仕掛けてくるアグレッシヴな太田光が山田に呑まれてしまう。山田「今夜は太田さんと会えて、身も心も震えっぱなしなんです。僕にとって、僕の芸にとって、太田さんはお父さんです。光父さん!」 トーク冒頭から山田の話芸に馴染みのない観客のみならず、太田も顔をしわくちゃにしたまま絶句状態が続く。太田は山田にゾッコンなのだ。太田の機能不全を傍らに見て、急きょネタをキャッチして山田に投げ返したのは復帰したばかりの田中だった。山田が得意なひとり語りのネタはスポーツ。そのことに田中が触れるや、「絡みづらい芸」が炸裂する。田中「山田さんは僕も好きな競馬も語りの芸になさってるんですよね?」山田「名馬テンポイント、悲運の貴公子テンポイント。時は昭和53年、1月22日。場所は雪積もる京都競馬場、第25回日本経済新春杯。前年の第22回有馬記念にて2大ライバル、トウショウボーイ、グリーングラスをしりぞけ……」田中「はい、ストップ、ストップ! いいですか。じゃあ、話を戻しますよ!」 この夜、田中がいなければ、独自の話芸を繰り出す山田が太田をテクニカルノックアウトしていただろう。日本お笑い界の雄、太田光が笑いっぱなしになる山田雅人の芸とは? 山田本人に直撃した。──山田さんを紹介する際、爆笑問題のお二人が「日本一絡みづらい芸人」と言ってましたが?山田「ホントね、爆笑問題の太田さん、田中さん、面白いですよね。あの二人の脳に住みたいくらいなんです。どういう風に世界が見えてるんでしょう? 住みたいなあ!」──えーっと、絡みづらい芸人と呼ばれることに関して山田さんご本人としてはどう……。山田「あー、僕ね、普通にこうなんです。爆笑問題さんがとても面白い、面白いなら褒めるのが当たり前で。年下でも、僕が尊敬できる人なら、その気持ちを表すという。で、お客さんは笑うんですけど、僕としてはいたって通常運転なんです。絡みづらいというのは僕が自分の話に没頭するからじゃないかな」──好きな話になると、スイッチがすぐ入る。山田「そうなんです。僕が好きな話題に差し掛かると、ついつい周囲を忘れて語ってしまって。野球で長嶋茂雄さんのことになれば、昭和33年、既に六大学野球でスターであった長嶋茂雄が読売巨人軍へ入団。この年の日本シリーズ、巨人対西鉄は歴史的対決となった。空前の人気を集めたルーキー長嶋を迎え撃つのは、入団3年目にして鉄腕の名をほしいままにしていたエース稲尾和久! わずか3年で89勝という偉業を達成していた稲尾。長嶋と初めてまみえた後楽園球場の1回戦、1回裏二死満塁の場面では……」──えーっと、あの山田さん、山田さん!山田「あ、は、はい!」──ガチでワールドへ没入されるんですね。山田「そうなんです、この癖が『絡みづらい芸』と言われるところなんですかね(笑)。これを聞いてくださって、ぜひ観客の前で演るべきだと仰ったのが高田文夫先生で。家族からも『演れ』と言われてたんですが、どうしてもこれを話芸とは思えずに自信がなくって。でも、高田先生に後押しされ、2009年に下北沢の劇場で始めましてね」──客を前にして演じてみてどうでした?山田「不思議なことに喜んでくれたんです。嬉しかったですね、自分の拙い思い入れの喋りを楽しんでもらえたんですから。それから競馬のハイセイコー、オグリキャップ。スポーツでは『江夏の21球』や『甲子園バックスクリーン3連発』。人物伝では有森裕子さんや永六輔さん、藤山寛美先生など題材に十年続けてきまして。これは全て、高田先生が下さった太鼓判のお陰なんです」──語りは台本を書かれるんですか。山田「関係者やご本人へ取材を繰り返しまして、原稿用紙で250枚以上は書きます。それを刈り込んで一時間ものにしていく」──ひとりの観客として山田さんの語り芸を聞いて、山田さんがホントにファン目線で語るんだなあと感動しました。山田「僕が演る語りは、とにかく自分が惚れ込んだ人や事件です。寛美先生に対しては、僕、若い頃に松竹新喜劇のオーディションを受けたくらい憧れてましたから」──そして今度は『太田光物語』に挑む。山田「去年、『藤山寛美物語』を公演した後、高田先生が『次は江戸の笑いを引っ張っていく芸人の話を作れ』と仰った。その芸人さんは誰ですかと問うと、すぐ『太田光だ』とお答えがありましてね。もうそこからは一心不乱に取材の日々でした。太田光さんの生き方を通して、現代の喜劇人の生き方、考え方を学べましたねえ!」──山田さんが演じる「かたりの世界」のユニークさは、舞台に題材となった御本人が登場するというところですね。山田「それを僕はストップモーションと呼んでるんですがね。御本人が来て『そのくだりは違う』とか指摘されるのってスリリングなんです。当事者の視点が入ることで世界がひろがるというか。単純に僕が御本人の語りが大好き、生本番のハプニングを楽しみにしてるところが大きいんですけど」──今度は太田さん以外に高田先生、松村邦洋さんもお迎えしてクロストークが実現する。山田「どうなるんでしょうね! 太田さんだけでも凄いのに。もう、僕は寝ても覚めても太田光という人の世界に住んでる状態ですから、どんなことがあってもいいと覚悟してるんです。太田さんを語る僕が先生方に丸裸にされるかもしれないですけど、そんな自分を見てみたい気もして。幸せなんです!」 笑いのご意見番・高田文夫、トップ芸人・太田光を魅了する山田雅人の「かたりの世界」。10月23日は、日本の笑芸界に新しい何かが起こるか。◆取材・文/岸川真(作家)
2020.10.21 16:00
NEWSポストセブン
高田文夫氏が少年時代から憧れ続けた“放送作家第一世代”
高田文夫氏が少年時代から憧れ続けた“放送作家第一世代”
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、放送作家〈第一世代〉である永六輔さんと大橋巨泉さんが20年以上前に共演した番組の録画を見て思い出したことなどについてお送りする。 * * * 七夕は私の心の師、永六輔の命日。亡くなってもう4年も経つのだ。若い放送作家が1枚のDVDを持ってきて「さすがにこれは見てないでしょう。1997年のNHKのBS。3時間の生放送で永さんが司会の特番“夢でワイドショー”。亡くなったばかりの渥美清特集。大橋巨泉をゲストに丁丁発止やりあってます。60代半ばの2人のやたら元気なこと」 永六輔、巨泉の頭の回転の速さと芸ごとへの造詣の深さに圧倒された。そのくせ毒が効いててユーモラスで……かつてはこういう良質な大人のバラエティがあったなァと後輩として反省。 思えば小さい頃はラジオばかりで、たしか脚本家とか構成屋とか呼ばれていた。テレビが来て昼間毎日10分間やる『おとなの漫画』が大好きで、オープニング、ハナ肇がフリップをめくっていき「おとなの漫画」「出演 ハナ肇とクレージーキャッツ」「作・青島幸男」と言う。 クラスの皆はクレージーに夢中だったが、私はこの「作」という言葉に敏感に反応した。「作」ということはクレージーよりも面白くて、作ることのできる人なんだと理解した。職業を調べたら“放送作家”。ヒゲをはやして一日中、机にむかっている“作家”(文豪)のイメージの上に“放送”がついている。そうかそうか、スタジオからスタジオへ飛びまわる作家なんだと分かった。後日、字の通り“送りっ放し”の作家でいいと言われた。 小学校の卒業文集には「大きくなったら青島幸男になります」とハッキリ書いた。テレビの創生期にはあらゆる才能を持った放送作家が現われ、東京の文化度の高い我々を夢中にした。お笑い界では今“第七世代”が有名だが、我々放送作家業界では昔から、〈第一世代〉テレビを創った人達が青島幸男、永六輔、大橋巨泉、前田武彦、野末陳平、塚田茂ら。〈第二世代〉そのテレビを見て育ったのが私、景山民夫、高平哲郎、喰始。〈第三世代〉今をときめく宮藤官九郎、高須光聖、鈴木おさむ達であろう。私は放送が大好きで大学も日大芸術学部の放送学科へ進んだ。キチンとブロードキャスティングを学んだ放送学士である。 先輩の方達はみんな言う、“タレントより面白くて、コントもできてDJもやる。その合間にチョコチョコと台本も書く”、これが放送作家の定義だそうな。エンタのシンガーソングライターってことだろう。表も裏もってことだ。今の放送作家って名乗ってる連中なぞ、チョコチョコっとネットで調べて無言で渡すだけ。そこにマスコミュニケーションはない。 永六輔と巨泉の特番を見てしみじみ東京の“インテリ八ッつあん”と“熊さん”が喋ってるなァと思った。基本は人間が大好きなのだ。■イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2020年7月31日・8月7日号
2020.07.31 07:00
週刊ポスト
「葬儀は自分主催のイベント」と言った金子哲雄さんの生前準備
「葬儀は自分主催のイベント」と言った金子哲雄さんの生前準備
 告別式やお別れ会といえば、やはり、心に残るのは「弔辞」だろう。芸能人のお葬式でも、これまで数え切れないほどの弔辞が読まれてきたが、いまなお「伝説」として語り継がれるのは、漫画家の赤塚不二夫さん(2008年8月逝去、享年72)の告別式での、タモリ(74才)の弔辞だ。《私もあなたの数多くの作品の一つです》の名文句が日本中の人々の心に響いただけでなく、その弔辞が「白紙」だったことも、驚きを持って報道された。  芸能人のお別れ会の取材もする葬儀ポータルサイト「いい葬儀」の小林憲行さんは、忘れられない弔辞として、永六輔さん(2016年7月逝去、享年83)の告別式を振り返る。 「黒柳徹子さん(86才)の弔辞が素晴らしく、永さんにお会いしたことのない私でも、ご本人の生前の姿が思い浮かび、涙が出ました。いい弔辞というのは文章の巧みさなどではなく、その人を思って話すことが何より大切です」  文章を作るのが苦手な人は、テンプレート(雛型)の弔辞を参考にして構わない。思いがこもっていればテンプレートの文面でも参列者の胸を打つという。  流通ジャーナリストとしてテレビでもおなじみだった金子哲雄さん(2012年10月逝去、享年41)の葬儀では、本人が生前に準備した会葬礼状が話題になった。 《このたびは、お忙しい中、私、金子哲雄の葬儀にご列席賜り、ありがとうございました。今回、41歳で、人生における早期リタイア制度を利用させていただいたことに対し、感謝申し上げると同時に、現在、お仕事等にて、お世話になっている関係者のみなさまに、ご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます》 希少ながんである「肺カルチノイド」との闘病を続けながら、最期の瞬間まで「終活」を続けていた金子さんは、自らの葬儀も“セルフプロデュース”した。その出来栄えは「完璧」だったと妻で終活ジャーナリストの稚子(わかこ)さんは語る。 「今日明日にも亡くなるかもしれないという危険な状況になり、慌てて葬儀社を呼んで打ち合わせをしたんです。本人がベッドの上に背を起こし、『自分の葬儀は自分主催のイベント。流通ジャーナリストとして、葬儀を間違えたくない』と主張し、酸素濃縮器をつけながら打ち合わせを始めました。葬儀社のかたも驚いていました」  病床でせき込みながら、金子さんは葬儀の進行や棺、会葬礼状などを次々に指示した。「イベントはおいしい料理があれば印象がよくなる」と力説し、通夜ぶるまいの料理には特にこだわっていたという。  一方で、すべてを細部まで固めるのではなく、大筋を決めたら、後は稚子さんや担当者に任せたのも金子さん流だった。 「夫は、『もし迷うことがあったら、松竹梅の真ん中の“竹”にしてください』と常々話していました。そのおかげで、霊柩車は真ん中のクラスにするなど、夫が生前に指示していなかった事柄もスムーズに決定できました。迷いがないと、お葬式の準備がこんなに楽になるとは知りませんでした」(稚子さん)  エンディングノートを書いている人でも、葬儀の段取りをしている人は少ないという。一方で、冬場の葬儀にもかかわらず「あじさいを棺に入れてほしい」といった要望が残されるケースもある。いずれも遺族にとっては大きな負担になるため、希望は伝えても遺族が判断できる余地も残すようにしたい。金子さんプロデュースの葬儀には1300人が参列した。 「あまりにたくさんのかたが参列してくれたので、出棺が遅れ、火葬場で予定していたものとは違う立派な火葬炉を利用することになりました。そのための割り増し費用が唯一、夫の遺志に反するものになりました(笑い)」(稚子さん)  夫の葬儀は「お別れの式」ではなく、大勢の人に愛されていることを確認できた「ありがたい場だった」という。  素敵なお葬式を実現するためには、亡くなってからでは遅い。有名人たちの実体験を参考にしながら、家族や自分自身の“最後のイベント”に向き合ってほしい。※女性セブン2020年3月19日号
2020.03.15 07:00
マネーポストWEB
談志も唸った“取材する話芸家”山田雅人の思い出
談志も唸った“取材する話芸家”山田雅人の思い出
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、一人語りを芸に昇華、2009年から「かたりの世界」と題して舞台公演を続ける芸人で俳優の山田雅人との出会いとその芸についてお送りする。 * * * 昔、そう30年位前の話か。山田雅人と森脇健児は大阪ではアイドルのようなスターだった。レギュラー番組も沢山持ち、球場でコンサートをやれば女の子がつめかけた。吉本が今のような隆盛を誇る前の松竹芸能の“森脇・山田”である。 この流れが今の“ますだおかだ”につながっていると勝手に思う。俳優でもそこそこ売れたが、一念発起して東京へ出てきて勝手に私の門を叩いてきた。25年位前か、私も血気盛んで、談志師匠からも「東京の演芸を仕切ってくれ」などと言われていたので「関東高田組」を結成し、まったく無名時代の春風亭昇太、立川談春、志らく、浅草キッド、松村邦洋、江頭2:50、出川哲朗らの中へ山田も放り込み、ライブなどで競わせた。「落語」でも「漫談」でも「ひとり芝居」でもないあの流ちょうな喋りを生かせるものはないものかと考え、マイク一本スポットライトのみの「かたり」という「芸」をふたりであみ出した。野球が大好きだった私は、昭和33年の巨人対西鉄の日本シリーズ3連敗からの4連勝、長嶋対稲尾の対決をキッチリ取材して語ってくれないかとお願いした。 目をとじて聞けば10歳の時の興奮がよみがえってくる。これだ。根っからのスポーツと芸能好きな山田は一話作るのに徹底的に話をきいて回り“取材する話芸家”となっていった。ファンもジワリジワリと増えていった。その取材力、記憶力、よどみない喋りを初めてきいた談志は「いいです。その喋り、競馬の実況をうちのセガレにも弟子にも教えてやってくれ」と言った。「長嶋天覧試合本塁打」、「江川対掛布物語」、広島の「津田恒美物語」も十七回忌の時に作って口演した。得意とする芸能畑も「藤山寛美物語」、「永六輔物語」などが印象深い。 さぁそこで私はまたひとつ課題を出してみた。爆笑問題の太田光という創造者も魅力的なのだが、その父のエピソードがなんとも愉快でユニークなのだ。 頭でっかちの下らねぇ評論家と違って物を産み出す職人であり芸術家なのだ(私も太田も芸術学部)。そうこうしている内に数か月前NHKの『ファミリーヒストリー』で太田の父と母が取りあげられ、そのDNAの素晴しさに感動。あの両親から産まれた東京漫才の雄なのだ。 いま山田はウラ取材を重ね「太田光物語」を一気に語りおろす。5月1日(金)。爆問の事務所は阿佐ヶ谷なので、太田のホーム「座・高円寺2」で開催。太田も私も松村邦洋も出演。3月27日(金)前売開始。■イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2020年3月20日号
2020.03.13 07:00
週刊ポスト
高田文夫氏が振り返るたけし、竹山、松之丞らと会う楽しさ
高田文夫氏が振り返るたけし、竹山、松之丞らと会う楽しさ
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫氏が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、1月27日から2月8日まで、ビートたけし氏、立川志らく、カンニング竹山など、芸の世界の人たちと会い続けた日々についてお送りする。 * * * 人に会うのは楽しい。芸能もマスコミも人に会うのが仕事の様なものだ。 1月27日、浅草は東洋館にて久々にビートたけし氏と。2回目を迎えた「ビートたけし杯争奪」の漫才大会。たけし、私、ナイツが審査員。本番前、楽屋でふたりっきりでバカッ話。まさかこんな日が来るとも知らず「時代小説の『首』もいいけどさ、小説すばるにひっそり発表した。『不良』がいいネ。足立区の悪い奴らの事、あれ程詳しくリアルに書ける人間はいないネ。イヨッ、不良あがり!」なんて盛りあがっていた。 2月2日は新しくなった渋谷PARCO劇場へ。20年やって3年工事期間があって、この程めでたく再スタート“こけらおとし”「志の輔らくご」(1月24日~2月20日)。いつの時代も物ごとの始まりは“三番叟(さんばそう)”らしく、志の輔も衣裳をつけてぎこちないひと舞い。高座でも言っていたが“こけら(※漢字では機種依存文字。木へんの作りに鍋ぶたに巾)”も“かき(※きへんに市)”もほとんど同じ様な字らしい。下に付く言葉で変わるのだろうか。 下に“おとし”が付けば“こけらおとし”。下に“ドロボー”が付けば“柿ドロボー”という具合だ。ちなみに“こけらおとし”とは工事の最後に屋根などの木屑を払い落としたことから、新築劇場の初興行のことと広辞苑にある。 2月3日、私のラジオ生放送に久々にカンニング竹山。「コメンテイターなんてやってやがって、久しぶりだなあ」と言ったらあきれられて「覚えてないでしょ。高田センセ、倒れて意識不明の時、私が代わりに何回か喋ってたんですからネ」だと。2012年のことか。ちっとも覚えちゃいない。 竹山が1年じっくり取材してライブで発表する“放送禁止ライブ”が毎回すこぶる面白い。客も上質で、聴いた事は一切口外しない。晩年車椅子でも来ていた永六輔氏と一緒に楽しんだのはいい想い出。業界内でもチケット入手大困難。どうしても聴きたい人の為にキャパも大きくして、3月17日には中野サンプラザで公演をする。チケットはすでに完売。 2月6日、昨秋真打昇進、やっとひと段落の柳亭小痴楽らと一杯。若き日の松之丞の努力ぶりなどきく。7日私の所へ、もうすぐ松之丞から伯山になる男、息せき切ってやってくる。「あさって披露目のパーティーだけど大丈夫か?」「みんなが後向きの協力で…やはり人柄ですか」百年に一人の逸材がバタバタ。 8日新聞に「たけし73歳、芸能界最高齢婚。上原謙、加藤茶越え」だとさ。東洋館じゃ言いづらかったのかなァ。■イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2020年2月28日・3月6日号
2020.02.18 16:00
週刊ポスト
諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師
もしかして軽度認知障害? 医師が実践する簡単な診断テスト
 老いについて医療者として取り組み続けている諏訪中央病院名誉院長の鎌田實医師。認知症か軽度認知障害かを診断する簡単なテストについて鎌田医師が紹介する。 * * * 昨年の秋、ぼくが出演しているラジオ番組「日曜はがんばらない」(文化放送、日曜朝10時~)に、ゲストとして山本朋史さんを招いた。ぼくが以前、「週刊朝日」で連載していたときの担当編集者だ。新聞記者の経歴もあり、故・永六輔さんは「敏腕記者」といつもほめていた。 その山本さんに異変が起きたのは、60歳を過ぎたころ。たった一か月半の間に、ズボンのファスナーの締め忘れが13回、電車で乗り過ごしたのが13回、会合のダブルブッキングが2回、人の名前が出てこないのはもはや日常茶飯事だったという。 大学病院のもの忘れ外来で、改訂長谷川式簡易知能評価スケールなど認知症の4つの検査を受けると、軽度認知障害(MCI)と診断された。軽度認知障害は、認知症の予備軍の段階。放っておくと4年で14%が認知症になる一方、生活習慣を改善することで約半数が健常に戻るといわれている。 山本さんには、ラジオ番組で軽度認知障害になった体験を語ってもらったのだ。 認知症か、あるいは軽度認知障害かを診断する場合、ぼくの外来では簡単なテストをする。初めに「今から言う数字を覚えておいてください」と言って、4つの数字を口頭で伝える。例えば「0628」。そして、別の質問をしたり、家での様子について聞いた後に、最初に伝えた数字を思い出してもらい、逆側から言ってもらう。正解は「8260」だ。 読者のみなさんも、できるかどうか、ぜひ、やってみてほしい。 このテストは、前頭葉の働きのワーキングメモリという機能をチェックしている。ワーキングメモリとは、何かの作業をするときに必要な情報や記憶を短期的に保持しておくことで、これがうまく働かないと、作業がはかどらない。仕事だけでなく、人の話を聞きながら説明したり、質問したりするのも、このワーキングメモリが働いているといわれる。 4つの数字を逆から言うことができなかった人は、ワーキングメモリが低下している可能性がある。もしかしたら認知症予備軍の軽度認知障害の、さらに前段階くらいになっているかもしれない。 山本さんは、軽度認知障害の診断を受けたが、回復のためにできるかぎりのことをしようと固く決意した。そして、認知症デイケアに通い、認知力アップトレーニングや楽器を使った音楽療法、集中して絵を描く芸術療法に取り組んだ。特に、筋トレには手ごたえを感じたという。その結果、見事、軽度認知障害から回復することができたのだ。 ラジオ番組の収録の日、山本さんは、ぼくの似顔絵を描いてきてくれた。よく特徴をとらえている。絵もうれしかったが、ぼくは、山本さんが以前にもまして生き生きしていたのがうれしかった。 放送で彼は、早期発見の大切さを強調した。「脳からのSOSのサインは本人がいちばん早くに気が付く。変だなと思ったらまず専門医に相談すること。早期発見すれば早期に治療ができる」 軽度認知障害から回復した山本さんの言葉には説得力があった。●かまた・みのる/1948年生まれ。東京医科歯科大学医学部卒業後、長野県の諏訪中央病院に赴任。現在同名誉院長。チェルノブイリの子供たちや福島原発事故被災者たちへの医療支援などにも取り組んでいる。著書に『人間の値打ち』『忖度バカ』など多数。※週刊ポスト2020年2月21日号
2020.02.14 07:00
週刊ポスト
高田文夫が注目のエンタメ本 昭和を堪能できる傑作の数々
高田文夫が注目のエンタメ本 昭和を堪能できる傑作の数々
 放送作家、タレント、演芸評論家で立川流の「立川藤志楼」として高座にもあがる高田文夫が『週刊ポスト』で連載するエッセイ「笑刊ポスト」。今回は、石原裕次郎、由利徹、三木鶏郎など、昭和のおじさんたちが堪能できるエンタメ本を“ソムリエ”の高田氏が紹介する。 * * * 合併号やらで一週休んでる間に芸能界を牛耳る二大組織がてんやわんや。ジャニーズ事務所に吉本興業だ。その隙間を縫って贈られてきた本やら買った本など……私は「エンタメブックソムリエ」と呼ばれている。 現代の二枚目はジャニーズ、三枚目は吉本ということで独占販売しているが、昭和の時代はなんたって二の石原裕次郎、三のオシャマンベ由利徹である。まき子夫人も“最後の法要”といっていた裕次郎の三十三回忌も無事にすんで、ファンには嬉しい記念出版『石原裕次郎昭和太陽伝』(アルファベータブックス)が出た。この世界ではこの男くらいマニアックな奴はいない佐藤利明が、出演作品104作、シングルレコード237タイトルをギッチリ書き込んだ。ああ太陽がまぶしい。 裕次郎が灼熱の太陽なら昭和の星くずは脱線トリオの由利徹。晩年はテレビドラマの久世作品でもおなじみ。私もよく知る高平哲郎。1981年、そんな昔に『由利徹が行く』という大傑作を書いているのに、この度また由利を描いた『喜劇役者の時代』(ヨシモトブックス)。大好きな森川信や八波むと志が躍動した日本の“笑い”の青春時代がよみがえる。 今を生きるおじさんマニアには『にっぽんのペーソス』(カンゼン)がおすすめ。ごく一部にうけている切ないおじさんバンドである。まんが家の島本慶やら伝説の編集者・末井昭らがたそがれた歌声、演奏をきかす。本を出すのでひと言だけ書いてくれと頼まれたので、チョコチョコッとトイレで走り書きして渡したら、本になってびっくり。ドーンと一ページ目に私のありがたいコメントとして載っている。『なにひとつ国の為にならない。なにひとつ日本の文化史に残らない。ほとほとあきれる男達である。(後略)』果してこの男達、老後の2千万円はどうするのだろうか。 そして力作は『冗談音楽の怪人・三木鶏郎』(新潮選書)。泉麻人が本当によくコツコツと調べあげた。永六輔やら三木のり平の師匠筋で、名前ばかりが残ってその実像が知られていなかったエンタメの巨人の実像を書いたみごとな評伝。CMソングもコントもすべてこの人からなのだ。 そして今ページを開くのにドキドキしているのが『1988年のパ・リーグ』山室寛之(新潮社)。帯には「南海・阪急の衝撃的な身売り、そして伝説のロッテvs近鉄『10・19』」とある。昭和最後の年の男のドラマだ。 昭和が好きすぎて『東京懐かし写真帖』秋山武雄(中公新書ラクレ)。浅草橋の洋食店のおやじが撮りまくった素晴しい昭和の東京。幼き日の自分がいるよう。◆イラスト/佐野文二郎※週刊ポスト2019年8月9日号
2019.07.31 16:00
週刊ポスト
小林幸子を「どん底」から救ってくれた北島三郎の言葉
小林幸子を「どん底」から救ってくれた北島三郎の言葉
 事務所の「お家騒動」によってマスコミから大バッシングされ、一時はテレビ出演どころか新曲も出せない窮地に陥った小林幸子(65)。そんな「どん底」から復活した小林の胸に響いたのは、サブちゃんこと北島三郎の言葉だった。小林幸子の短期集通連載の第4回は、苦境を脱して初めて気付いたことについて、総括する。 * * * 振り返ってみると、人生、本当にいい時ばかりじゃありませんよね。でも、辛いことのほうが多かったかと聞かれれば、絶対にそうではありません。 もちろん、泣きたいこともありました。でもそんな中にも、楽しいことは必ずあるものなんです。逆に言えば、周りから幸せそうに見えていたって、当の本人には辛いことだってある。皆さんもそうじゃないでしょうか。 10年近く前の事務所トラブルの時も、「辛くなかった」と言えば、正直、嘘になります。スタッフの退社をめぐり、一時、マスコミから激しいバッシングを受けるなど、ちょっとした騒動になりました。 マスコミの風当たりは強く、所属していたレコード会社からの新曲リリースも保留となりました。「CDを出せない」というのは、歌手にとって死亡宣告を受けたようなものですから、その時は絶望のどん底。にっちもさっちもいかなくなりました。 それでも、さだ兄(さだまさし)に新曲を作ってもらったり、インディーズレーベルを立ち上げたりと、何とかこの窮地を脱することができました。◆人生の寄り道や道草は決して無駄じゃない 2011年の出場を最後に、紅白からも遠ざかっていたのですが、2015年に『千本桜』で特別出演を果たします。4年振りのことでした。 その時、オヤジさんから(北島三郎さんのことをこう呼ばせてもらっているのですが)こう言われたんです。「なあ、幸子。いろんなことがあったけど、この3年間は道草してたと思え。道草ってなあ、楽しいぞ」 本当にそうだよなァ。オヤジさんの言葉は、胸に染みました。『おもいで酒』が200万枚を超えるヒットになって以降、私は舗装された高速道路を無自覚に走ってきました。そしてここから見える風景だけがすべてだと思っていました。 でも、突然、高速道路から降りることを余儀なくされてしまい、私は未舗装のデコボコ道を進まざるを得なくなりました。ハンドルを握るのも大変。寄り道に回り道、時間もかかります。 ところが、ふと冷静になって周囲の風景を眺めてみると、これが素敵なんです。えっ、こんな美しい場所があったの? と、この年になって知った。 高速道路を降りなければ気づかなかったことです。たしかにお膳立てされた高速道路は走りやすいし、時間もかからないけれど、目に入る景色はいつも一緒。安定しているけれど、驚きはありません。 下の道は、デコボコだけれど、驚きの連続でした。そして何より、「自分で切り拓いていく」という面白さがありました。しかも、この寄り道のおかげで、私はたくさんの人に出会えたし、たくさんの経験ができた。オヤジさんはわかっていた。人生の寄り道や道草が、決して無駄じゃないことを。「ひとつ、いつもと違う角を曲がればそれはもう旅の始まり」。これは尊敬する永六輔さんの言葉。ようやく、この言葉の意味を実感しています。 高速道路を走っていれば、角はありません。高速を降りたことで、私は初めて角を見つけた。角を自由に曲がる面白さを発見した。で、曲がってみる。寄り道です。でもここから新しい旅が始まる。これってワクワクしません?※小林幸子・著『ラスボスの伝言~小林幸子の「幸」を招く20のルール』より抜粋
2019.06.29 16:00
NEWSポストセブン
【著者に訊け】泉麻人氏『冗談音楽の怪人・三木鶏郎』
【著者に訊け】泉麻人氏『冗談音楽の怪人・三木鶏郎』
【著者に訊け】泉麻人氏/『冗談音楽の怪人・三木鶏郎 ラジオとCMソングの戦後史』/1500円+税/新潮社 いかにも東京っ子らしい感性や諧謔味。鬱屈に浸ることを良しとしない一回転した明るさ等々、書く人と書かれる人の間に親和性を感じさせる1冊だ。 泉麻人著『冗談音楽の怪人・三木鶏郎』は、三木や著者にとっても初の評伝。終戦まもない1946年、三木は自作の曲「南の風が消えちゃった」をGHQ管轄下のNHKに持ち込み、数日後には番組を任されることに。洒落た音楽と諷刺劇で話題をさらった『歌の新聞』や、『日曜娯楽版』の名物コーナー『冗談音楽』(1947年~)、また草創期のCMやアニメ主題歌も多数手がけた彼は、日本のポップカルチャーの元祖中の元祖でもあった。 その曲調は総じて明るく、ポップそのもの。それこそ〈私はこの誰もいない、なにもない焼け跡の雰囲気を馬鹿に明るく感じた〉と自著に書いた彼を、泉氏は敬愛をこめて〈トリロー〉と呼ぶ。 1956年生まれの泉氏にとって1914年生まれの三木鶏郎、本名・繁田裕司の初期作品は、必ずしも懐かしい対象ではない。「僕自身のトリロー体験は1963年の『鉄人28号』の主題歌からですからね。それが大学の広告サークルに入った後に、♪ジンジン仁丹~とか、弘田三枝子の♪アスパラでやりぬこう~とか、無意識に歌ってきた音楽と作者が一致しました。最近は自分が生まれる前の昭和20年代くらいまで興味の幅が広がりつつあるんです。 特にNHKのラジオしかない時代に時事風刺をやる娯楽番組があったことは、戦後史として見おとせない。現に『フラフラ節』であの吉田茂を散々おちょくった彼らは当局に睨まれ、『冗談音楽』は1952年に一度打ち切りになるのですが、すぐにタイトルを変えて復活するほど人気もあった。 学生時代の永六輔や川上弘美さんのお父さまが熱心に番組を聞いてコントを投稿していた。また、トリローの元秘書は野坂昭如で、門下生には、伊藤アキラ、いずみたく、短期間ながら五木寛之もいる。役者としても中村メイコに楠トシエ、河井坊茶や三木のり平、有島一郎や左とん平まで、錚々たる人材を輩出しているのも、トリローグループのスゴイところなんです」 復員早々、楽団を組んでキャンプを回り、ミッキーマウスと音楽用語のトリルから芸名を取った三木は、日本橋城東小学校から暁星学園、旧制浦和高から東京帝大法学部に進んだ秀才。弁護士の父は彼に16ミリカメラや楽器を買い与え、よく日本橋のフランス料理店にも連れ立ったと自著にある。その際、前菜共々堪能したクラシックの生演奏を彼は〈アスパラガスの音楽〉と名付け、生涯自らの音楽の原風景とするのである。 泉氏は日本橋・村井銀行の地下にあったというその店を古地図に探し、現地を歩いた結果、それが東洋軒の支店であると特定。古い映画に偶然映り込んだビルのテナント名や新聞の縮刷版に載ったコラム記事から過去への推理を膨らませるなど、寄り道こそを強みにする歴史探偵ぶりが楽しい。「天皇の料理番・秋山徳蔵も料理長を務めた東洋軒の支店で、トリローは好物のアスパラやフルコースに舌鼓を打つ、お坊ちゃまだったわけです。明治の煙草王・村井吉兵衛が専売制導入後に銀行を創業し、東洋軒を誘致したことが彼を音楽の道に導くのも何かの因縁でしょう。陸軍の同期に東急の五島昇がいたり、人脈や地縁をあれこれ推理しながらトリローゆかりの町を歩くのも、散歩好きにはたまらないんです。 トリロー売り出し中の頃に、上の世代の井伏鱒二や内田百間と鼎談して〈アプレゲール〉呼ばわりされるエピソードがあるのですが、そんな一件にふれながら、僕が80年代の頃に『新人類』として野坂昭如さんの対談に呼ばれていじられたことをふと思い出しました」◆地を見せない東京の音楽人『冗談音楽』から生まれたヒット曲「僕は特急の機関士で」や、♪キリンレモン、♪クシャミ三回ルル三錠といったCM。ディズニー作品の日本語版や『トムとジェリー』の主題歌も手がけた三木の仕事はそのまま、現代に繋がっているという。「僕が子供の頃好きだったクレージーキャッツのコント番組なんかもトリローのラジオ番組の構成が原点なんじゃないかな。コミックソングも含めて、そういう日本流ポップの源流を知る面白さもあった。 ソフトばかりでなく、ハードな機械にも明るいトリローは、東京通信工業時代のソニー・盛田昭夫&井深大コンビと『下町ロケット』的なノリで意気投合したり、小林一三に目をかけられて宝塚のショー演出を任されそうになったり、人脈の幅も広い。晩年は糖尿病もあってハワイの別荘で悠々自適に暮らし、かと思うとその闘病生活自体を趣味にしてみたり、一言で言えば掴みどころがない人ですね」 かつて焼け野原に明るさを感じたと書いた三木に、変化を恐れず、むしろ楽しむ東京人として、泉氏はシンパシーを覚えるという。「『南の風……』にしても、戦後の虚無感を歌いながら、曲調はメジャーなんですよ。それを市ヶ谷の堀端に建てた自称〈トリ小屋〉で書き、30代でデビューした彼は、今回取材した方々にも酔ってくだを巻いたりする姿は一切見せなかったらしく、どこまでも上品で洒落てて、地を見せない、東京の音楽人だったんだと思います」 洒落る。茶化す。笑いには必ず毒をまぶす。そんなポップで粋な人生の作法を、ぜひ令和にも引き継ぎたい。【プロフィール】いずみ・あさと/1956年東京生まれ。慶應義塾中・高、同大商学部を卒業後、東京ニュース通信社入社。『週刊TVガイド』編集部等を経てコラムニストに。著書に『ナウのしくみ』『東京23区物語』『B級ニュース図鑑』『けっこう凄い人』『お天気おじさんへの道』『東京ふつうの喫茶店』『東京考現学図鑑』『大東京23区散歩』『僕とニュー・ミュージックの時代』等。来年は1964年に関する新刊を予定。「東京五輪本というより、その時代の個人的社会史です」。173cm、65kg、O型。構成■橋本紀子 撮影■三島正※週刊ポスト2019年6月28日号冗談音楽の怪人・三木鶏郎 :ラジオとCMソングの戦後史 (新潮選書)
2019.06.22 16:00
週刊ポスト
永六輔さん、「遺言」がなくても相続でもめなかったワケ
永六輔さん、「遺言」がなくても相続でもめなかったワケ
 ワイドショーでは莫大な遺産を巡る「争続問題」が取り沙汰されることが多いが、その裏には、思わず膝を打つほど見事な終い方を遂げた往年の大スターたちもいる。たとえば樹木希林さんは、夫が亡くなった時の二次相続のリスク回避まで想定し、生前に専門家もうなる高度な相続テクニックを使っていた。その一方で、「うちは正反対」と語る遺族もいる。 放送作家や作詞家、ラジオパーソナリティーなど、マルチに活躍し、2016年7月に亡くなった永六輔さん(享年83)は、生前、財産やお金について一切語らなかったという。永さんの次女・麻理さんは苦笑する。「父は“お金の話をするのははしたない”という考えで、永家ではお金の話題はある種タブーでした。自分がいくら財産を持っているのか、最期まで知ろうともせず亡くなりました」 代わりに永家の財産を管理したのは妻の昌子さんだった。しっかり者の昌子さんは税理士とタッグを組み、会社組織を作ったり、不動産を購入するなど節税対策を進めた。年間110万円までは非課税となる「暦年課税制度」を利用して、4人の孫が誕生した時から生前贈与も行った。 しかし、2001年6月、一家を悲劇が襲う。昌子さんが末期の胃がんと診断され、翌年1月に68才の若さで息を引き取った。最愛の妻の闘病中、永さんは心労で15kgもやせたという。だが、深い悲しみが癒える間もなく、永家のお金の管理は2人の娘たちが引き継ぐことになる。「税理士さんに相談しながら、姉と私と夫たちみんなで探り探り、母からの引き継ぎを行いました。父は見事なくらいノータッチで、すべて子供たちにお任せです。 お寺の息子だった父は、人の生死や老いについては一家言あり『大往生』という本も書きましたが、事務的な死の備えにはまったく無関心。おかげで、母からの引き継ぎが完了した時点で父の財産関係はすべて把握できていました。今考えると、父が一切を私たちに任せたことで、結果的には生前整理になったのかもしれません」(麻理さん) 昌子さんの死から8年後、永さんはパーキンソン病や前立腺がんを患う。転倒して大腿骨頸部を骨折したことから、車いすの生活となった。2016年の七夕に永さんは肺炎で永眠したが、お金に関しては死後も大きな混乱はなかった。「よく親のカードの暗証番号や印鑑の場所を把握することが大変だといわれますが、父はATMや銀行の窓口に行ったことすらなかった(笑い)。遺言もありませんでしたが、“父なら公平性を第一にしただろうな”と考えて、相続はできる限り公平に。ただ、蔵書やノートなど膨大な遺品に埋もれた実家は、引き継いだ姉が今もコツコツ片づけています」(麻理さん) 遺言について、永さんは生前ラジオで、〈ぼくは毎年元旦に遺言書を書き直しているんだ〉と語ったことがあった。しかし、ある時から、「自分が死んだ後のことをああしろ、こうしろと書くのは、遺った人の負担になるだけ」と考えを改め、遺言を書くのはやめたという。 そんな永さんが唯一、娘に伝えていたのは、なんとも永さんらしい望みだった。 妻のお骨をずっと自宅に置いていたので、〈ぼくが骨壺になったら、昌子さんの骨壺との間に本を並べて、ブックエンドにしてね〉 娘たちは父の「遺言」に従い、両親の骨壺の間に著書を並べてから、納骨を済ませた。※女性セブン2019年3月28日・4月4日号
2019.03.18 07:00
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『太陽にほえろ!』脚本家が身元不明の遺体で発見された事情
『太陽にほえろ!』脚本家が身元不明の遺体で発見された事情
 その“訃報”は、新聞の片隅で報じられていた。〈秋田県仙北市の脚本家、高階航(本名、高階茂嘉)さん(76)方から身元不明の遺体が見つかっていたことが11日、秋田県警関係者への取材で分かった。高階さんは1人暮らしとみられ、連絡が取れていない〉(産経新聞10月11日付大阪夕刊) 高階氏は高校卒業後に永六輔に弟子入りし、ドラマ『太陽にほえろ!』、『桃太郎侍』やアニメ『ルパン三世』などの大ヒット作を手掛けた脚本家だ。 高階氏は30年ほど前に離婚、子供たちとも離れ、母親の介護のために1989年に故郷の秋田に戻ったという。“Uターン後”の高階氏と付き合いが深かった秋田在住の友人男性が話す。「高階先生が話すのは東京で仕事していた時のことばかり。石原裕次郎とメシを食ったこととか、俺らには縁のないスターたちとの思い出だったよ。一昨年、先生が入院したときに『何かあったときにはどこに連絡したらいいんですか』と聞いたらAさんという人を挙げたけど、調べたらもう亡くなっていた。でも先生は他の連絡先を教えてくれなくてね。思えば自分や家族のことは話さない人だった」 秋田に戻ったばかりの頃はよく自転車で外出し、周囲と挨拶を交わしていた高階氏だったが、いつしか知人たちと距離を置くようになっていたという。「最近では玄関で大声で呼んでも返事がなく、電話にも出ない。それでこっちももういいやとなってしまったけど、別の友人によると実は耳が遠くなってたみたい。手紙を出すと返事は来ていたんだよ……」(同前) 10月10日、仕事を依頼しようと高階氏の自宅を訪れた会社員の通報によって、「身元不明の遺体」が発見された。その際、立ち会った母方の叔父(84)はこう話す。「1か月前に“新聞が何日分も溜まったままだ”と警察から連絡が来た。家に入ったら布団の中でうつ伏せになっていて、大声で呼んでもうんともすんとも言わなかった。今回また警察から様子がおかしいと連絡があって、行ったら電気が止まっていて部屋は暗くてな。警官が確認したら布団の中で死んでいたって。(離婚した妻との間に)2人の息子がいるけれど連絡先も知らねぇ。兄弟もいないし、俺たちも歳で何もできないから葬儀もやらねぇ。あとは警察に任せることにしたよ」 仙北署によると、発見された遺体は死後1週間以上経過していたとみられ、損傷が激しく、身元確認すらできない状態だという。「発見された状況からすると住まれていた方だと思われますが、間違いがあってはいけないので捜査中です。このまま身元不明の遺体となった場合は、一般的には行政が埋葬します。火葬して、自治体が管理する無縁仏に入ることになります。もし本人確認ができた場合も、遺族に引き取る意思がないと自治体で埋葬することになります」(副署長) 華々しい経歴とはあまりに対照的な最期だったが、かつて交遊した大スターたちがあの世で温かく迎えてくれることを祈りたい。※週刊ポスト2018年11月2日号
2018.10.24 07:00
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広末涼子、“破壊力強すぎ”コーデは健在「背中に蜘蛛」私服に続き目撃された「謎バッグ」
NEWSポストセブン
結婚し、日本メディアが情報をキャッチしづらいNYで、デイリーメールが追跡取材(写真/JMPA)
小室圭さん・眞子さん夫婦が「離婚で終わったとしても…」英デイリー・メールが報じた「茨の道」
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