金本知憲一覧

【金本知憲】に関するニュースを集めたページです。

野田浩司との交換トレードで阪神入りした松永浩美(写真:時事通信フォト)
阪神1990年代の暗黒時代を生んだ「ベテラン補強」の失敗
 1950年、プロ野球が2リーグに分裂してから今年で70周年を迎える。数え切れないほどのドラマが生まれてきた中でも、1985年の阪神タイガースの日本一は未だに語り継がれ、その後の低迷期も含め、多くのファンの記憶に残っている。阪神はなぜ、栄光の日本一から一気に転落していったのか。ベテラン野球担当記者がトレードやFA補強に注目して分析する。(文中敬称略。年齢はその年の満年齢。名前は当時)「1985年の優勝は先頭打者の真弓明信、クリーンアップのランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の破壊力が群を抜いていた。これは衆目の一致するところでしょう。それに加え、ベテランの移籍組も要所で活躍していた。 36歳の弘田澄男は前半戦、2番・センターで主軸につなぐ役割を果たし、日本シリーズでも全戦先発出場した。35歳の長崎啓二は右投手の時のスタメンや代打の切り札で欠かせない存在で、西武との日本シリーズでは第6戦で先制の満塁ホームランを放ち、日本一に貢献しました。同じく35歳の永尾泰憲は左の代打としてシーズン打率3割を超えました」(以下同) 弘田は1984年にロッテから藤倉一雅、長崎は1985年に池内豊との交換トレードで、永尾は1982年に近鉄から金銭トレードで阪神に。30代半ばのベテランが最後の一花を咲かせていた。「1980年代に入ってから、阪神は実績のある選手をトレードで獲得していました。1983年に横浜大洋から野村収が加藤博一との交換で、1984年に南海から山内新一が無償で入団した。2人とも通算100勝以上の投手でしたが、1985年は野村が39歳、山内が38歳と全盛期を過ぎており、1勝ずつに終わりました。ただ、移籍1年目は野村が12勝、山内が7勝と復活しました」 ベテランの獲得は即効性があり、短期間で見れば効果はあった。1985年の日本一で味をしめたのか、阪神は翌年以降も30代の選手をトレードで獲得していく。 1986年、34歳の柏原純一は日本ハムから金銭トレードで移籍し、規定打席未満ながら打率3割1分3厘、17本塁打と相次ぐ故障に泣いた掛布の穴を埋めた。しかし、翌年からは低迷し、在籍3年で現役引退した。そして1987年には、優勝メンバーで26歳と脂の乗った吉竹春樹、23歳の左投手である前田耕司を西武に放出し、33歳の田尾安志を獲った。「1981年から4年連続3割を打っていた田尾は1985年、中日から西武に移籍。パ・リーグの水に合わなかったのか、2年間不振を極めた。それでも、阪神のフロントはセ・リーグに戻れば変わると見込んだのでしょう。しかし、1年目の成績は打率2割2分1厘とさらに落ち込みました。田尾は翌年、3本のサヨナラ本塁打を放ち、規定打席不足ながら3割を打って復活しますが、37歳の1991年限りで引退。吉竹は堅実な守備を売りに黄金期の西武で準レギュラーとして1995年までプレーしました」◆トレードで放出した野田はオリックスで最多勝 1987年は田尾だけでなく、打者も投手も全く調子が上がらず、勝率3割3分1厘で最下位に沈んだ。球団史上初の2年連続最下位に終わった1988年には31歳の金森永時が西武から、30歳の久保康生が近鉄から、1989年には31歳の住友一哉が近鉄から交換トレードで移籍。低迷にあえぐチームの中でそれなりの働きをしたように、この頃のトレード全てが失敗に終わったわけではない。しかし、1990年代に入ると補強の失敗がさらに目立ってくる。「阪神は1989年5位、1990年6位と下位に定着してしまいます。打開策として1991年にダイエーと4対5のトレードをしたが、結果的に大損した。ダイエーに行った池田親興は抑えとして復活を果たし、大野久は盗塁王を獲得した。南海時代2ケタ勝利を挙げていた藤本修二や西川佳明は1勝も挙げず、わずか2年で阪神を去りました。池田は1985年の優勝以降、伸び悩んでいましたが、大野久は村山実監督が和田豊、中野佐資とともに“少年隊”と名付け、1989年には3割を打っていた。我慢して育てた選手を放出したように、球団に一貫性がなかった」 同じ1991年には、23歳の遠山昭治を出して、ロッテから33歳の高橋慶彦を獲得。しかし、高橋慶彦はオープン戦の始球式でタレントの山田雅人からデッドボールを食らったことが話題になったくらいで、打棒は影を潜めた。「広島の黄金時代を築いた慶彦は田尾と似たようなケースで、たった1年でパからセに戻ってきた。中村勝広監督は慶彦の良い時のイメージを忘れられず、開幕から1番で使ったが、打てなかった。この頃は知名度の高い選手に飛びつく傾向がありました」 補強の失敗を重ねた1991年は2年連続の最下位に終わった。交換トレードのなかった1992年、亀山努、新庄剛志の“亀新フィーバー”、仲田幸司など投手陣の急成長によって2位に躍進する。中村監督は、あと1歩で優勝を逃した原因は打線にあると考え、オリックスから32歳の松永浩美に触手を伸ばし、3年連続8勝以上を挙げていた24歳の野田浩司とのトレードに踏み切った。しかし、野田は移籍1年目の1993年に17勝で最多勝に輝き、1995年からの連覇にも先発の柱として貢献。松永は度重なるケガで80試合出場に留まり、オフにFAを行使してダイエーに移籍してしまった。「若手を出してベテランを獲るというトレードは博打に近い。仮に1年働いても、長い目でみれば損をする。それなのに、何度も繰り返すのは、移籍組のベテランの活躍もあって日本一になった1985年が脳裏に焼き付いていたのかもしれません。ただ、その年の1番・真弓は1979年に田淵幸一を放出した時のトレード相手で、阪神1年目は26歳だった。ミスター・タイガースを出す代わりに、伸び盛りの若手を獲ったことが1985年に生きたことを覚えておくべきだった」◆星野監督の補強はそれまでと何が違ったのか 1993年、阪神は4位とBクラスに逆戻り。オリックスから1994年に石嶺和彦を、1995年に山沖之彦をFAで獲得したが、往年のような働きはできなかった。特に山沖は故障のため1試合も登板せず、自由契約となった。「1994年、渡辺伸彦との交換トレードでオリックスから移籍した古溝克之が抑えのエースとして復活したように数は少ないが、成功例もある。しかし、球団に首尾一貫したポリシーがあるわけではなく、山沖のように手を挙げたから取りに行くというような場当たり的な補強が目立ちました」 1994年は4位だったが、1995年から2年連続最下位に沈む。すると、1985年の日本一監督である吉田義男氏が再登板。1998年、関川浩一、久慈照嘉という29歳の2人を放出し、中日から35歳の大豊泰昭、30歳の矢野輝弘を獲得した。「前年、本拠地が狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに変わり、大豊の成績は急落した。それなのに、同じように広い甲子園での活躍を望むのは酷でした。矢野はレギュラー捕手に定着しますが、1999年に関川と久慈が中日の優勝に貢献したことで、当時は阪神のトレード下手がクローズアップされました」 野村克也監督が1999年に就任。前年に阪神に戻っていた遠山、2001年に入団した成本年秀という他球団の自由契約選手の再生には成功しているが、トレードやFA補強が上手くいったとは言い難かった。これを変えたのが、2002年から監督を務めた星野仙一氏だった。2003年にはFAで広島から金本知憲を獲得。日本ハムと3対3の大型トレードも敢行し、坪井智哉、山田勝彦、伊達昌司を出して、下柳剛、野口寿浩、中村豊を手に入れた。大量の選手入れ替えを行ない、チームに喝を入れた星野は18年ぶりの優勝に導いた。「金本も下柳も35歳で阪神に入団。生え抜きスターの坪井智哉は29歳と脂の乗ってくる時期でしたし、伊達昌司も27歳だった。年齢だけ見れば、それまでのベテラン補強と同じでしたが、星野監督は過去の実績だけではなく、将来を見越す眼力があった」 金本は在籍9年間で4度の3割、1度の打点王、下柳は在籍8年で5度の2ケタ勝利、1度の最多勝に輝き、2003年と2005年と2度の優勝に主力としてチームを引っ張った。「下柳はトレード相手の3人よりもNPBで現役を長く続けた。1980年代や1990年代、阪神に移籍してきたベテランは活躍しても1年程度で、3年程度で引退や自由契約になる選手がほとんどでした。単に年齢だけでなく、本当に数年働けるかを見極める力、情報収集力が暗黒時代の現場、フロントにはなかった」 これ以降、阪神は若手を出してベテランを獲るという場当たり的な交換トレードはしなくなった。目先の勝利を求めるだけの補強戦略にピリオドを打った星野監督は、文字通り阪神を変えていた。
2020.05.12 16:00
NEWSポストセブン
野村克也氏、名言の数々「外野手出身の名監督はいない」ほか
野村克也氏、名言の数々「外野手出身の名監督はいない」ほか
 多くの野球人から尊敬された野村克也氏が、84歳でこの世を去った。時に辛辣でありながらも愛に満ちた“ボヤキ”を続けてきた野村氏。本誌・週刊ポストのインタビューでも何度も、現役選手や指揮官たちを叱咤した。最後まで野球と真剣に向き合い続けた野村氏の「教え」を改めて振り返る──。 現役時代は名捕手であり、指導者としてはヤクルト監督時代にはリーグ優勝4回、日本一3回を達成した名監督だった野村氏。「監督論」にも人一倍のこだわりがあった。 今季から采配を振るうヤクルトの高津臣吾監督、楽天の三木肇監督をはじめ、かつての“教え子たち”が指揮官としてチームを率いるようになったことについて聞いたのが、本誌での最後のインタビュー(2020年1月17・24日号掲載)となった。「この世界は結果。結果を出せば評価は高くなる」としながらも、「名将の条件とは『勝利』だけではない。結果を出すまでのプロセスが問われてくる。信は万物の元をなすというが、監督に必要なのは選手やコーチからの信頼。それが名将の唯一の条件だと私は考えている」と話し、監督となった“野村チルドレン”たちにエールを送った。〈監督論 野村の考え〉(2016年1月1・8日号掲載)と題したインタビューの取材では、訥々と自身の見解を披露した。この年は、巨人で高橋由伸監督、阪神で金本知憲監督が誕生したが、「プロ野球は監督の人材難だよ。球界の今後が心配で仕方がない」と表情を曇らせた。「名選手必ずしも名監督ならず。現役時代にスター選手だった監督、特にバッター出身の監督は、総じてホームランが飛び交うような素人が見ても楽しい野球を好む。言い方を変えれば、ただ投げて打って走るだけの、才能に頼った荒っぽい野球。うまくはまれば強いが、いつもうまくいくわけがない。それじゃ常勝チームは作れない」 もちろん、野村氏も戦後初の三冠王を獲得するなど、現役時代から輝かしい実績を残していたわけだが、同時代に王貞治氏、長嶋茂雄氏という大スターが活躍し、自らを「月見草」と評した。そういうキャリアを歩んだからこそ、見えるものがあるという自負もあったのであろう。「スター選手は自分が抜群のパフォーマンスをできたから、みんなができると思ってしまう。だから技術指導ができず、言葉より感覚を大切にしてしまう。目の前の試合に一喜一憂して、味方がホームランを打つと、選手と同じようにベンチを飛び出してくる。もちろん、タイムリーが出たり、逆転した場面で、監督の立場として“よし”とは思うが、このあとどう守ろう、どう逃げ切ろう、と先のことのほうがオレは気になるよ」 上田利治氏や森祇晶氏、そして自身の例を挙げながら「日本一監督は捕手出身ばかりだった」という点も強調した。現役時代のポジションによって、指揮官としての素質が大きく変わるというのは、野村氏が何度も指摘したことだった。「プロ野球の歴史の中で、外野手出身の名監督はいない」と断言。「(現役時代に)外野手は試合中に考えることがほとんどない。打者によって守備位置を変えるぐらい。それもベンチの指示で動くことが多く、細かいことを考えない。外野手出身の監督は細事小事に目がいかないというのが私の持論だ。 一方、名将とされる三原脩、水原茂、鶴岡一人、川上哲治、西本幸雄は全員が内野手出身。捕手ほど細かいことを見ていないが、横の連絡を取っているので総合的な視野で見られる」 独自の視点と分析力で蓄積したデータをもとにした、野村氏の「教え」の数々―─その礎にあったのは一捕手、一監督としての誇りと野球への深い愛情だった。※週刊ポスト2020年2月28日・3月6日号
2020.02.19 16:00
週刊ポスト
プロ野球自主トレ名場面集 滝行、アーチェリー、新聞配達も
プロ野球自主トレ名場面集 滝行、アーチェリー、新聞配達も
 プロ野球選手の自主トレーニングが熱を帯びるシーズン。キャンプインを前に、選手たちはいろいろな自主トレに励んでいる。中には、「それ、ホントに意味あるの?」と言いたくなるような思わず笑ってしまうトレーニングもある。往年のスターから現役プレーヤーまで、もう一度見たい名場面を振り返ろう(選手の所属はいずれも当時)。●身も凍る極寒の荒行で精神鍛錬 藤田太陽(阪神)、2003年/3年目の飛躍を誓い、頭を丸め「不動心」と書かれた手ぬぐいを持ち、岐阜県・不破にある落差16メートルの大滝で滝修行を行なった。●メジャー左腕の初々しい“力走” 菊池雄星(西武)、2010年/本拠地近くの西武園競輪場での新人合同自主トレで、自転車1000メートルを1分29秒16で駆け抜け、新人5人中2位でゴールした(※当時の登録名は「雄星」)。●ハイレグインストラクターとノリノリトレーニング 岡田彰布(阪神)、1987年/ハイレグのレオタードを着た女性インストラクター指導の元、当時ブームのエアロビクスを導入。この年阪神は球団史上2度目の最下位に。岡田も不振に陥った。●現役続行のベテラン左腕は弓矢で心を整えた 和田毅(ソフトバンク)、2007年/「心が少しでも乱れると矢は真ん中に行かない。投球も同じで、無駄な動きがあればロスになる」とアーチェリーを取り入れた。●強靭な下半身は新聞配達で鍛えた? 戸口天従(阪急)、1966年/友人経営の新聞配達店で約130軒を受け持ち、毎朝足腰を鍛えた。しかし、35歳のベテランはこの年わずか14試合出場で引退。●旅立ったミスタードラゴンズの若かりし姿 高木守道(中日)、1966年/西沢道夫監督が見守る中、愛知県体育館での合同自主トレでマット運動に勤しむ。1月17日、急性心不全のため死去。●勝負の世界を生き抜くための強靭な精神はここで鍛え上げた? 新井貴浩(阪神)、2009年/鹿児島・最福寺での護摩行は金本知憲の誘いで2004年から始め、引退まで続けた。解説者に転身した昨年夏にも行なったという。●凍える波の上で体幹トレーニング 武田翔太(ソフトバンク)、2013年/余計な力を抜いて体の軸を使って動く練習として、サーフボードに立って両手でパドルをこぐ「スタンドアップパドルボード」に挑戦。●関本が坪井に決めた必殺「腕ひしぎ十字固め」 関本賢太郎(阪神)・坪井智哉(日本ハム)、2008年/心肺機能を高め、瞬発力を向上させるため、K-1戦士ニコラス・ペタスの指導で格闘トレに励む。この年、関本は自己最高の136試合出場。●日本記録アスリートも苦笑い 大累進(巨人)、2013年/1990年代に短距離界を引っ張った伊東浩司氏の紹介で、陸上女子100メートル、200メートルの日本記録保持者である福島千里と30メートル走で競い、大累が勝利。●野球と陶芸の意外な接点 石毛宏典(西武)、1990年/集中力を養うため、岐阜県の「美濃焼」作りに挑戦。“陶磁トレ”は恒例行事になっていたが、1995年のダイエー移籍とともに消滅。◆取材・文/岡野誠※週刊ポスト2020年2月7日号
2020.01.30 07:00
週刊ポスト
運動音痴で野球に興味がなかったという
星野仙一氏の「優勝宣言」が阪神選手、フロントの意識変えた
 2003年に18年ぶりのセ・リーグ優勝を決めたのは、星野仙一監督率いる阪神タイガースだった。39年ぶりの本拠地・甲子園での優勝決定で、5万3000人のファンが歓喜に沸いた。優勝を報じるデイリースポーツ一面のロゴのしっぽも光る特別仕様だ。負けてもどこか諦める癖がつきかけた阪神ファンに、勝つ楽しさを思い出させてくれたシーズンだった。 就任1年目を4位で終えた星野氏は、大胆な“血の入れ替え”を断行した。20人以上を解雇し、フリーエージェントで金本知憲、伊良部秀輝を獲得。さらにトレードで下柳剛と中村豊、外国人選手ではウィリアムスとアリアスを補強し、「勝ちたいんや!」を合言葉に序盤から突っ走った。 4月18日に首位に立つと、7月にはマジックが点灯。終わってみれば87勝51敗2分、2位に14.5ゲーム差をつけての圧勝だった。当時、球団社長だった野崎勝義氏が語る。「星野さんはフロントも含めたチームの意識改革に成功したのが大きい。当時は最下位が4年間も続き、誰もが恥ずかしくて『優勝』なんて口にできませんでした。そんな中、就任1年目のキャンプで星野さんが優勝を宣言したのです。お陰で1年目のオフには皆が意識するようになった。ファンの声援も力にして、圧倒的な強さでゴールインしたシーズンでした」※週刊ポスト2019年11月8・15日号
2019.11.10 16:00
週刊ポスト
星野仙一さんの「お別れの会」(時事通信フォト)
元プロ野球選手の葬儀 現役時と引退後所属先、仕切るのは?
 ジャニー喜多川氏(享年87)の「家族葬」には所属事務所のタレント総勢100人以上が集まった。さらに8月には「お別れの会」が予定されている。有名人の葬儀の裏には花の並べ方や焼香の順番まで、慎重かつ入念に準備された“序列”がある。 スポーツ選手の場合も、交際範囲が広く、ファンも多い有名選手となれば、葬儀は大規模なものになる。 2018年4月に亡くなった衣笠祥雄氏(享年71)のお別れの会は6月28日に広島市内のホテルで行なわれたが、選手や野球界OB800人とファンを合わせて約3000人が参列した。「引退後は監督として広島に復帰することがなかったため、現役時代の広島球団と衣笠氏が亡くなるまで専属解説者を務めていたTBSで“どちらが仕切るか”を話し合ったそうです。最終的に発起人には広島のオーナーとTBSの社長の2人が並び、それに名球会が協力する形に収まった。緒方孝市監督がユニフォーム姿で参列するなど、やはりカープカラーが強かったですね」(球団関係者) プロ野球選手の場合、現役時代に活躍した球団と監督・コーチなど引退後の所属先のどちらが仕切るかが難しい。衣笠氏は“広島一筋”だったが、監督として複数球団で監督を務めたりした場合は、特に複雑になる。 2018年1月に死去した星野仙一氏(享年70)はまさにそのケースだ。「監督としては中日、阪神、楽天と3球団を渡り歩いたので、それぞれの関係者やファンのために、名古屋・大阪・東京の3か所でお別れの会が開かれました。メインは都内のホテルでのお別れの会。中日、阪神、楽天のユニフォームを着た星野さんの写真が3枚飾られ、最後の所属だった楽天の三木谷浩史・オーナーが挨拶しました。球団副会長まで務めたので、重きを置いたということでしょう。球界代表としては、六大学時代以来のライバルで親友でもある山本浩二氏が弔辞を読み上げました。 大阪で阪神球団が主催したお別れの会では、弔辞を阪神オーナー、金本知憲・阪神監督(当時)、六大学時代のライバルで元阪神選手の田淵幸一氏が読むなど阪神カラー一色でした」(スポーツ紙記者) 星野氏は現役時代は中日一筋で、監督としても球団を優勝に導いた功労者だが、他の2か所に先駆けて名古屋のホテルで催されたお別れの会は様相が違った。「星野さんが中日と疎遠になっていたからでしょう。それでも名古屋の財界人には人気があったので、発起人は中日とは関係のない大村秀章・愛知県知事で、星野さんの個人後援会が仕切った。中日のオーナーや森繁和監督、現役選手の姿はありませんでしたが、監督時代の主力だった球団OBの立浪和義氏やファンら約2000人が駆けつけました」(中日担当記者) さまざまな配慮やしがらみはあろうが、故人を悼む気持ちが最も大切であることは、どんな大物でも変わりがない。※週刊ポスト2019年8月2日号
2019.07.28 16:00
週刊ポスト
運動音痴で野球に興味がなかったという
阪神・矢野と楽天・平石 選手を育てる両新監督の共通点
「新しい上司と馬が合わない」「若手社員にどう接していいか分からない」──サラリーマンにはそうした悩みが付き物だが、プロ野球という“ビジネスの世界”でも、上司と部下の入れ替わりが付き物だ。新監督を迎えたチームでも、昨年に比べて「伸びた選手」と「調子を落とした選手」がハッキリしてきた。 矢野燿大・監督が就任した阪神では、長年の課題だった4番打者に大山悠輔(24)が固定されている。 野球評論家の金村義明氏が指摘する。「矢野監督は、インタビューでも『キーマン』や『誰に期待している』ということは一切言わない。全員に期待しているという雰囲気を醸し出しているが、唯一決めているのが、大山を4番に座らせ続けること。僕も大山の成績で順位が決まると思っているが、その期待に大山がよくついていっている。こうやって若手が育つんだと思いますね」 打率.306と好調をキープする正捕手・梅野隆太郎(28)の活躍も際立つ。「昨年、二軍を率いた矢野監督は、梅野よりも坂本誠志郎(25)のリードを評価していた。梅野は“なにくそ”という精神で、キャンプから結果を残し、矢野監督にレギュラーとして認めさせたんです。9回裏にサヨナラ勝ちを決めた6月9日の日本ハム戦では、逆転のきっかけになる三盗を決めて矢野監督を男泣きさせましたからね」(金村氏) そのように、矢野監督が自ら感情を表に出すことで、昨季までの金本知憲・前監督に比べ、「ベンチの雰囲気が明るくなった」とも言われる。在阪スポーツ紙デスクが明かす。「矢野監督は、選手のモチベーションを保つのがうまい。二軍で可愛がっていた9年目の苦労人、島本浩也(26)が一軍初セーブを上げた6日の試合後は、“メチャクチャうれしい。感動した”と喜びを爆発させた。 二軍監督出身だけあって、ファームに落とす選手には個人面談を行ない、改善すべきことを明確に伝える。時間がある限り二軍の試合にも視察に行く。下でもがいている選手にとって、いい刺激になってるんでしょう」◆名監督、名選手にあらず 前出・金村氏が「阪神と同様にベンチのムードが良い」と評するのが、平石洋介・監督率いる楽天だ。「平石監督も選手からの人望が厚い。12球団最年少の39歳の監督として、選手との年齢が近いぶん距離も近く、コミュニケーションを密にとる。対戦相手の映像を見て、投球の癖や傾向を分析し、打者の好不調時のスイングの特徴をノートに記録するなど、データや知識の引き出しを増やすことにも余念がない」(スポーツ紙デスク) 平石監督の入念な準備の背景には、「選手としての実績の無さ」への自覚があるという。「プロ在籍期間は7年で、放った安打はわずか37本。高校3年生時には、PL学園のキャプテンとして甲子園に出場し、松坂大輔(38)擁する横浜高校と対戦しましたが、その際も“控えのキャプテン”でした。自ら『実績が無いから』と口にし、選手には決して偉ぶらない。そうした謙虚さが選手からは慕える兄のように見え、信頼につながるのでしょう。昨年、打率.247と調子を落とした茂木栄五郎(25)が復調し、ソフトバンクから移籍した山下斐紹(26)も代打起用に本塁打で応えるなど、若手の勢いが良い」(同前) だが、多くの選手から信頼されている一方で、平石監督のもとで調子を落としている選手もいる。「選手会長として楽天を支えてきた嶋基宏(34)です。開幕から26回連続で盗塁を刺せず(6月11日現在、以下同)、盗塁阻止率.086はぶっちぎりの12球団ワースト。打率も.183と低迷し、7日に腰の炎症で2年ぶりに登録抹消されました。今季はエースの則本昂大(28)や岸孝之(34)を欠く中で、平石監督がうまくローテを回してきましたが、嶋の不調には有効な対策を見出せていない。同じ捕手出身の梨田昌孝・監督が昨シーズン途中に成績不振を理由に辞任しましたが、そういったことも影響があったのか……」(同前) 矢野監督と平石監督に共通するのは、「選手がプレーしやすい環境を整える」という点だ。「矢野監督のように喜怒哀楽を前面に出して選手に慕われた監督といえば、阪神の故・村山実・元監督が思い浮かびます。試合後の会見で悔し涙や嬉し涙を流し、審判の判定に不服があれば必死の形相で抗議した。その姿は選手のモチベーションにつながりました」(スポーツジャーナリスト)※週刊ポスト2019年6月28日号
2019.06.19 16:00
週刊ポスト
巨人・坂本勇人の開幕からの連続試合出塁は36でストップしたが(写真:時事通信フォト)
坂本勇人も抜けなかったスティーブの記録、当時の報道は?
 5月12日、巨人・坂本勇人が開幕からの連続試合出塁を36に伸ばし、1997年の広島・金本知憲を抜き、セ・リーグ新記録を樹立した。しかし、14日の阪神戦で5打席凡退し、記録はストップ。1983年の西武・スティーブの持つ日本記録の40試合には届かなかった。 スティーブは、サンフランシスコ・ジャイアンツ、シカゴ・カブスを経て、1980年に西武に入団。西武在籍6年間で5度の打率3割をマークした選手だ。 坂本の活躍によって、1980年代前半に西武を引っ張った外国人選手に突然、スポットが当たった。当時、スティーブの記録はどう伝えられていたのか。ライターの岡野誠氏が1983年のスポーツ紙を綿密に調査した。【※1:引用の表記は当時のまま ※2:1983年文脈なら所属や名称は1983年当時のもの: * * *〈田淵441号 長島に「あと3」 11号3ラン豪快〉(1983年5月25日付・報知新聞)〈田淵“奇縁”連発 王手だ 長島の444号 昨年も同じ日、同じ阪急から12、13号〉(1983年5月26日付・サンケイスポーツ)〈V砲だ 記念444号田淵 大卒アーチスト頂点 並んだゾ 長島さん〉(1983年5月27日付・スポーツニッポン) 西武・スティーブが連続試合出塁を続けていた1983年5月下旬、同僚・田淵幸一は通算本塁打数で長嶋茂雄に迫っており、複数のスポーツ紙で1面を飾っていた――。 当時のパ・リーグはメディアに取り上げられる機会が少なかった印象があるが、前年初の日本一に輝いた西武の試合は日によって違いはあれど、スポーツ紙で1ページの3分の2から4分の3ページほど割かれており、1面に躍り出る日もあった。 それならば、スティーブの記録も大々的に報道されていたのではないか――と紙面を丹念に探ってみた。 当時のセ・リーグ記録と思われる王貞治に並んだ33試合目、破った34試合目も連続試合出塁のトピックは見当たらない。40試合目に到達した5月30日の南海戦でも触れられていない。この日、西武はチームの月間本塁打数が50となり、当時の日本新記録を達成(最終的には51本)。紙面はその出来事に焦点を絞っていた。 5月31日の日本ハム戦で、スティーブの記録は止まる。この時は、さすがに話題にするのではないか。翌6月1日、西武対日本ハム戦を伝えるスポーツ紙の見出しを並べてみよう。 日刊スポーツ〈ハムかうぞ 西武を逆転 大沢親分反抗宣言〉 スポーツニッポン〈“広岡監督300勝”フイ 6回ドタバタ西武劇〉 報知新聞〈テリー18号、西武無念 月間51発 古屋逆転6号〉 記事を読むと、ショート石毛宏典とセンター岡村隆則が交錯してフライを落とした6回表に逆転を許し、西武が敗戦したことを中心に伝えている。 そんな中、デイリースポーツが『データスコープ』というコーナーでこう記していた。〈昨年の十月二日の日本ハム13戦以来44試合連続出塁中のスティーブ。7回に敵失で出塁したが、敵失は出塁記録にならないため、この記録はストップ〉(1983年6月1日付) 小さな囲み記事で、わずかに触れられていただけ。2019年の坂本勇人の記録は連日各紙を賑わせていたが、1983年のスティーブは全く注目されていなかったのである。 その証拠の1つとして、月間MVPに触れてみよう。5月26日にパ・リーグが『5月度月間MVP候補』を発表し、11人の中にはスティーブの名前もあった。しかし、最終選考は月間4勝の東尾修(西武)、鈴木啓示(近鉄)、月間13本塁打の田淵幸一の3名に絞られ、田淵が受賞した(当時は各リーグ1人ずつの選出)。1975年制定の同賞第1号である田淵は、初のセ・パ両リーグでの受賞に。選考理由はこう報道されている。〈【1】ホームランが最高だけでなく、打点22、打率2割9分5厘と3部門コンスタント【2】ホームランを打った12試合中、11試合にチームが勝った【3】長島の通算ホームラン記録を抜いた〉(1983年6月7日付 日刊スポーツ) 通算本塁打1位は王貞治の868本だが、当時大卒の最多本塁打は長嶋茂雄の444本。法政大学出身の田淵は445本となり、立教大出身のミスターを上回った。この頃、パ・リーグの月間MVPには呼称があり、“オーバー・ザ・グレイト・ナガシマ賞”と名付けられている。 選考方法を調べると、最終的にはリーグ会長がデータとファンからの投票を加味して決定していた、と伝えられている。田淵が阪神出身で知名度の高い選手であり、人気者だったことも後押ししたかもしれない。スポーツ紙もスティーブの連続出塁試合は眼中になく、田淵幸一の“長嶋超え”にスポットを当てていた。 あれから36年経った令和元年、坂本勇人が開幕から連続試合出塁を続けた。それによって、昭和58年、全く注目されていなかったスティーブの記録が脚光を浴びた。“記憶”は時が経つと、歪んで伝えられがちだ。一方で、“記録”は時間の経過によって、再発見される場合もある。当時は評価されなくても、後から振り返ると凄いとわかることがある。 プロ野球の記録は時空を超える。坂本の開幕からの36試合連続出塁は85年に及ぶ歴史の奥深さ、記録を正確に残しておくことの大切さも教えてくれた。●文/岡野誠:ライター・芸能研究家。研究分野は松木安太郎、生島ヒロシ、プロ野球選手名鑑など。著書『田原俊彦論 芸能界アイドル戦記1979-2018』(青弓社)で『ビッグ発言』に関する報道がどう移り変わっていったかを詳細に描くなどして話題に。歴史の中に埋もれた事実にスポットを当てることをモットーとしている。
2019.05.20 16:00
NEWSポストセブン
かつては“伝書鳩”のようだったと自らを評する金村氏
全球団キャンプ訪問20年の金村義明氏「伝書鳩」時代の収穫
  何度も飛行機に乗り、自らレンタカーを運転し、練習休養日を避けながら球団を巡る──。元プロ野球選手の金村義明氏(55)が引退以来行なっている全球団へのキャンプ行脚が、20年目を迎えた。なぜ、全球団を巡るのか。金村氏が語った。 * * * いや、ホンマかないませんわ。花粉の飛んでるこの時期は、くしゃみや鼻水だけじゃありませんからね。顔全体がもうかゆくてかゆくて、花粉症には8年ほど前から悩まされてて。〈取材会場に姿を見せた金村氏は、濡れたおしぼりで顔を拭きながら話し始めた。〉 でも、今年もずっと外におりました。沖縄3往復に、宮崎2往復で、全12球団のキャンプを回りましたよ。年のせいで体もキツくなってきましたけど、こればっかりは、行かへんと気持ち悪いというかね。自己満足かもしれないですけど、楽しいですし、何より野球が好きですから。〈金村氏は、兵庫・報徳学園の「エースで4番」として1981年の夏の甲子園を制し、ドラフト1位で近鉄(当時)に野手として入団。中日、西武と渡り歩いた18年の現役生活では、強打の内野手として活躍した。 現在は、テレビ、ラジオにレギュラーをもつ人気野球評論家だが、引退後すぐは、スポーツ紙などの専属契約がなく「フリーランス」として活動を始めたという。しかしその下積み期間が、他の評論家とは違う独自のスタイルを築き上げた。〉 引退した翌年(2000年)から今年まで、20年欠かさず、12球団のキャンプに行ってます。珍しいんとちゃいますか。僕の知ってる限りでは、12球団全部見とったのは江夏豊さん(70)くらいでしたかね。 引退してから仕事がなかったので、引退挨拶も兼ねて、自腹で全球団回ったのがきっかけです。肩書きがないから、取材に入れてもらうときは「野球人」って書いていた(笑い)。 やっぱり、現場で直接話を聞かんと、見えてこんものがあるんです。最近は、有料放送とかでキャンプの映像を見られますけど、残念ながら僕はスター選手ではありませんでしたし、指導者経験もありませんから、一目見ただけで「調子がいい、悪い」なんてわかりません。だから、現場で“生の声”を聞かんとわからんのです。 僕の自慢は、友達が多いこと。18年プロでメシを食ってきて、各球団のコーチ陣や選手、さらに審判にも、現役時代一緒だったやつらがいますからね。そういった連中から、「コイツは調子がエエ」とか、「大化けするで」という“情報”が入ってくるんです。 だから、僕は選手バスが到着する前に、キャンプ地のグラウンドに行くことが多いですね。おっさんになって早くに目が覚めるいうこともありますけど、そうすると朝早くからいる裏方のスタッフとゆっくり話せるんです。 評論家としての実績なんて何もないから、初めのうちは伝書鳩でしたよ。取材に行くと、「(別のチームの)××にこう言っといてくれるか」と頼まれ、その球団に行くと今度は「△△にこう伝えといてくれ」って。 そうしているうちに「金村は全球団見とる」というのが知られるようになって、「あのルーキー見たか? どないやった?」って球団の関係者に聞かれるようにもなりました。 最近の話やと“守秘義務”があるんで教えられへんけど、ちょっと前では阪神の金本知憲前監督(50)が、大山悠輔(24)をドラフト1位で獲得したとき、指名回避してパ・リーグに入ったピッチャーのことを気にしてましたね。「見た?」って聞かれたから「大したことあらへん。獲らんで正解やったで」と言うときました(笑い)。それから何年か経ったけど、いまだに頭角を現わしてきてませんね。※週刊ポスト2019年4月5日号
2019.03.25 11:00
週刊ポスト
矢野阪神キャンプ“臨時コーチ”が中日OBばかりで大混乱
矢野阪神キャンプ“臨時コーチ”が中日OBばかりで大混乱
 昨年最下位の屈辱を晴らすべく、矢野燿大・新監督のもとキャンプに励むタイガース。とりわけ若手選手の成長が急務といわれるが、キャンプ地に現われた“臨時コーチ”をめぐって、ギクシャクした空気が漂っている──。 2月5日、阪神キャンプ地の沖縄・宜野座で、若手投手たちが“臨時コーチ”の指導に目を輝かせていた。矢野監督が先発ローテーションとして期待を寄せる3年目右腕・浜地真澄(20)が指導を求めたのは中日のエースとして2度の最多勝を獲得した川上憲伸氏。川上氏の決め球だったカットボールの投げ方を教わったのだ。「浜地は『リリースの感覚が全然違いました。無理に曲げなくていい、と教えてもらいました』と嬉々として語っていた」(番記者)◆“聖域”に中日OBが“進駐” 同日、川上氏のほかにも通算219勝の山本昌氏、通算403本塁打の山崎武司氏もキャンプを訪れた。2人とも川上氏とともに中日の全盛期を支えた“ドラゴンズの元看板選手”だ。 山本氏は左腕の飯田優也(28)に、自身の代名詞・スクリューボールを伝授。3年目の才木浩人(20)や小野泰己(24)をはじめ、長くスランプにあえぐ藤浪晋太郎(24)にもアドバイスし、ブルペン滞在時間は2時間以上に及んだ。山崎氏は、本塁打王を2度獲得した打撃理論を主砲候補の大山悠輔(24)に授けた。 その様子が報じられると、「なんで中日のOBばかり?」と疑問に感じた虎党も多かったようだ。熱狂的な阪神ファンで知られる関西大学名誉教授・宮本勝浩氏もその一人だ。「阪神は、巨人と並んで生え抜き意識が高い球団です。優れた成績を残したOBも多いだけに、他球団OBに頼らないといけないとすれば複雑な気持ちです。確かに野村克也さん、星野仙一さんと“外部の血”を入れて強くなった過去もあるのですが……」 在阪スポーツ紙のベテラン記者が語る。「阪神で他球団のOBがこれほど積極的に指導するのは初めてではないか。ブルペンの捕手側のネット裏は、基本的に評論家か関係者以外は立ち入り禁止で、どこのキャンプもその球団のOBが多い。阪神OB陣も連日視察に訪れますが、監督や選手と談笑はするものの、練習中のブルペンやグラウンドで直接指導することは滅多にない。そんな“聖域”にライバル球団の元看板選手たちが入ってくるわけですから、戸惑いを感じたベテラン選手も少なからずいたようです。 異例の臨時コーチは、現役時代、中日に7年間所属した矢野監督の“古巣人脈”で実現した。キャンプを訪れた旧知の3人に指導をお願いしたそうです」◆「コーチを信用できなくなる」 1週間後の2月12日、阪神OB会による陣中見舞い贈呈式が催され、OB会長の川藤幸三氏が「優勝して、いい酒を飲まんかい!」とハッパをかけた。今キャンプは吉田義男、掛布雅之、岡田彰布、真弓明信、江夏豊といったOBたちが視察したが、金本知憲・前監督は一度も姿を見せていない。「金本氏が顔を出さないのは、矢野監督への配慮があってのことでしょう。矢野監督が今年のキャンプテーマに掲げたのは、『自主性と競争』。“やらされる練習に意味はない”と考え、昨年までの金本氏の厳しい指導を反面教師にしている側面がある。ただ、矢野監督のこの方針には、OBから“練習が緩すぎる”という批判的な声もあがっている」(前出・番記者) そんな中での矢野監督による“臨時コーチ”招聘は、阪神OBの目にどう映っているのか。生え抜きとして球団初の2000本安打を放った藤田平氏はこう語る。「他球団のOBが教えるのは善し悪しだと思うな。1日で教えられるもんやないし、それができるならコーチが不要になってしまう。ワンポイントアドバイスだからこそ、選手がどう受けとめているかが問題。シーズンが始まって“もっと教えてくれ”と頼める相手ではないからね。 今季から加入した西勇輝(28)とガルシア(29)で20勝の上積みが期待できる。今年の阪神は面白いだけに、雑音はできるだけ少ないほうがいい」 阪神に選手、コーチとして在籍経験のある通算350勝投手・米田哲也氏の指摘は手厳しい。「ライバル球団の中日OBが阪神で教える。絶対にやっちゃいかんことです。たとえワンポイントでも直接選手にアドバイスすると、本人だけでなく現場のコーチが混乱する。私もキャンプで監督から選手を見てくれとよく言われるが、見たこと、気づいたことは監督やコーチに伝えればいいんです。不用意な助言で、選手がコーチを信用しなくなるのが怖い。そういった不安を、新人監督の矢野監督はわかっていないようだ」 矢野監督が乗り出した“開国政策”は吉と出るか、凶と出るか。※週刊ポスト2019年3月8日号
2019.02.25 16:00
週刊ポスト
今季のMVP候補でもある丸佳浩(写真:時事通信フォト)
丸FA流出でも広島が「暗黒期」に戻らない理由
 プロ野球界の今オフのストーブリーグで最大の注目はFA宣言をした広島・丸佳浩(29)の動向だろう。今季、3番・センターを担い、3割6厘、39本塁打、97打点でゴールデングラブ賞も受賞。MVP候補と言われる丸に対して、巨人とロッテが獲得に名乗りを上げている。 広島はFA移籍によってチームが弱体化した過去もあってか、丸に対して宣言残留を認める意向を示している。 1993年オフのFA制度導入以降、広島は8選手が権利を行使してきた。1995年に左のエースでジャイアンツキラーとしても名を馳せた川口和久が巨人へ。2000年には江藤智が巨人へ、2003年に金本知憲、2008年に新井貴浩が阪神へ移籍(新井は2015年に広島に復帰)。生え抜きのスター選手が育ったと思えば、他球団に“奪われて”いった歴史がある。 主力選手の流出もあってか広島はBクラスを抜け出せず、一方で2000年の長嶋巨人、2003年の星野阪神は優勝を果たした。3連覇の立役者の1人である丸が移籍となれば、広島が大打撃を喰らうことは間違いない。丸に限らず、2019年オフには菊池涼介、野村祐輔、會澤翼ら、2020年オフには田中広輔がFA取得予定となっている。ファンは15年連続Bクラスの“暗黒期”を知っているだけに、彼らの流出を危惧している。野球担当記者が話す。「タナ・キク・マルが3人抜けたとしたら相当痛いですが、だからといって1990年代や2000年代のような連続Bクラス状態に舞い戻ることは考えづらい。というのも、当時はFAだけでなく、大学・社会人の1位、2位には逆指名の権利があり、そのドラフト制度が広島の弱体化に大きく関係していたからです」(以下同) 逆指名制度導入1年目である1993年の1位は岡山南高校の山根雅仁だったが、1勝もできずに引退。社会人出身で2位の上田好剛は1軍登板なしのまま、現役生活を終えた。 なかには一時的に活躍を見せたドラフト1位選手もいたが、長続きしなかった印象だ。1994年、日本体育大から入団した山内泰幸は新人王に輝き、3年目までに32勝を挙げたが、その後は故障もあって目立った成績は残せていない。市立銚子高から1995年に入団した長谷川昌幸は2001年に9勝、2002年に13勝を挙げたが、それ以外の年は活躍できなかった。 1997年に青山学院大から入団した澤崎俊和は1年目に12勝を挙げて新人王に輝くも、以降は期待されたほどの成績は残せていない。「嶋重宣(1994年2位)や東出輝裕(1998年1位)のように、高校生のドラフト上位から主力に成長した選手もいるし、この時期にドラフトで獲得した選手がすべて活躍しなかったわけではない。だが、当時は巨人の人気が高く、在京球団希望の選手が目立っていた。たとえば、直前まで広島を逆指名すると思われていた地元出身の二岡智宏(1998年)が逆指名で巨人入りするなど、他球団に後塵を拝した面は否めない。 もし現行のドラフト制度であれば、もっと層が厚くなる補強ができていたはずで、15年連続Bクラスはなかったのではないか」 近年では2014年に大竹寛が巨人にFA移籍したが、この年の広島は3位でシーズンを終えた。勝ち越してのAクラス入りは実に18年ぶりだった。2016年にはポスティングで前田健太がメジャーへ渡ったが、この年にチームは25年ぶりの優勝を果たし、以降3連覇を成し遂げている。明らかに、1990年代や2000年代とは様相が変わっているのだ。「2007年に入札抽選制度に戻って以降、広島も他球団と変わらないドラフト補強ができるようになった。そのため、たとえ選手流出があったとしても戦力の大幅ダウンが避けられている。たとえ丸が流出するようなことがあっても、以前のような暗黒期への突入は心配しなくてもいいのではないでしょうか」 広島にとって丸が残留するに越したことはないだろうが、かつてのように長きにわたるチーム低迷を心配する時期ではないのかもしれない。
2018.11.15 16:00
NEWSポストセブン
金本知憲氏の“再就職”難航 弟分・新井貴浩と明暗分かれる
金本知憲氏の“再就職”難航 弟分・新井貴浩と明暗分かれる
 プロ野球選手のセカンドキャリアは様々だ。球団職員として“再雇用”される人もいれば、まったく別の仕事に第2の人生を求めて“再就職”する人もいる。 今シーズン限りで阪神の監督を辞任した金本知憲(50)は、現役引退後の2013年からスポーツ紙2紙の専属評論家を務めた。「2紙というのは異例でした。金本の場合、現役時代に残した圧倒的な数字と人気、そして“いずれ監督になる”という将来もあったので、どちらも譲らなかった。それだけ、評論家として価値があると評価されていた」(スポーツ紙記者) いってみれば“太い客を抱える営業マン”のようなもので、長年勤めた会社(球団)を離れても働き口はいくらでもあった。 その後、2016年シーズンから監督に就任。2年目こそ2位に入ったが、今年はチームとして17年ぶりの最下位に沈んだ。その責任を取る形で金本が辞任を発表したのは10月11日だった。「辞任後、古巣のスポーツ紙が再び評論家の専属契約を結ぶと目されていましたが、そのどちらもが契約に二の足を踏んでいるようなんです。むしろ、お互い譲り合っているような……。部数が伸びず、あまり専属評論家を抱えられない事情もある。ですが、ファンから“終わった人”と見られつつある金本さんの解説では、読者の共感を得られないという計算もあるのではないか」(同前) 金本は昨年阪神との契約を3年更新していた。だが、急転直下の辞任劇となり、後任の矢野燿大新監督(49)はコーチ人事に追われた。「ファンの声を気にする球団側の働きかけが相当強かった。表向きは自ら辞めていますが、実際は解任に近い。その上、あまりに急で投げ出すような辞め方になってしまい、ファンの目にも悪く映ってしまった。それが、“再就職”にも影響している格好です」(同前) 形の上では同じようでも、その景色は5年前と大きく違っている。◆「金本さんについていく」 一方、スポーツ紙に加えテレビ各局が争奪戦を繰り広げ、“再就職難”とは無縁なのが今季限りで引退する広島の新井貴浩(41)だ。「明るいキャラクターに加え、後輩から時にいじられながらも慕われる人間性を高く評価するマスコミ関係者は多い。お茶の間はもちろん、ネット上の人気もある」(別のスポーツ紙記者) 2人のこれまでの歩みを踏まえれば、このあまりに対照的な“定年後”の姿に考えさせられるところは多い。 金本と新井は、広島、阪神で一緒にプレーし、自他共に認める“兄弟分”だった。金本は1992年に広島に入団した。4年目には24本塁打を放ち、低迷するチームで4番に座り続けた。1999年に広島に入団した新井は目立つ存在ではなかった。「お前が生きていくためには、きつい練習に耐えるしかないんじゃ」 教育係の金本はそう尻を叩き続けた。すっかりお馴染みになった新井の護摩行も、元は金本が精神修養のために行なっていたものだ。 2002年オフ、金本はFAで阪神に移籍。移籍1年目の2003年は開幕から3番に座り、阪神の18年ぶりのリーグ優勝の立役者になった。 後を追うように2007年オフに新井もFA権を公使し阪神へ移籍。理由は「もう一度金本さんと野球がしたい」という思いだった。「金本がホームランを打ってベンチ前でハイタッチをしていても、新井にだけ張り手といったことは日常茶飯事。選手名鑑の金本の趣味の欄に“新井いじり”と書かれたこともあった。殴られてもつねられても新井は“金本さんがいなかったら、いまの僕はない”と感謝を口にしていた。いつも“頼れるアニキ”と“落ちこぼれた子分”だった」(前出・スポーツ紙記者)◆“子分”がいつしか“兄貴分” 金本は2010年、連続フルイニング出場記録を1492試合に伸ばし、ギネス記録に認定された。通算2539安打は歴代7位だ。 一方の新井は、阪神在籍中に二度、「併殺王」という不名誉を得て、金本引退後の2014年オフに自由契約になり広島に復帰。2016年に2000安打を達成しこちらも名球会入りを果たした。 アニキと子分の野球人生は、重なり合う部分も多い。だが、現在の2人の明暗はくっきりと分かれている。「分岐点は、新井が広島に復帰したことでしょう。年俸2000万円を受け入れ、しかも、同じタイミングで黒田博樹もメジャーから帰ってきた。ファンの目には、2人が救世主のように映っていた」(担当記者) 復帰1年目は4位だったものの、翌年からリーグ3連覇。ベテランの域に入った新井はいつしか「慕われる兄貴」に変わっていた。「今の若い選手にとって、リーダーシップの在り方が変わってきたのかも知れない。かつては常識だったスパルタより、寄り添うことを求められる。それぞれ、金本と新井のイメージにぴったり重なる」(別の記者) それが、キャリアの“節目”を迎えた2人の評価の違いとなったのか。ただ、“男の人生”はまだ続く。元銀行員で作家の江上剛氏は、そこを強調した。「金本監督は、ファンやマスコミから託された“アニキ”のイメージを追い過ぎたんではないでしょうか。意気に感じるのはいいが、もっと冷徹になる必要があったと思います。ただ、今回の結果が金本監督の能力のすべてではない。捲土重来という言葉があるように、もう一度阪神の監督に返り咲いて結果を出す。それが男でしょう。 これから先の顔が大切だと思いますよ。“こんな球団で監督なんかやれるか”“頼まれても二度とやるか”と腐ったら終わり。失敗した時の振る舞いで先々が変わるのは、サラリーマンと同じです。まだ1回目。チャンスは必ずやってきます」 選手時代とは違ったかたちで評価が問われるのは新井も同じだ。元デイリースポーツの編集局長でスポーツジャーナリストの平井隆司氏がいう。「他人の悪口をいえないタイプの新井が時に厳しい目線も求められる評論家・解説者としてどれだけやれるか。いまは新鮮さがあって引っ張りだこでも、そのうち辛酸舐めた金本の評論を聞きたいコアなファンの声も出てくるかもしれない」 金本と新井。常に近くにいながら対照的な2人の男の人生は、この先どんな展開を見せるのか。(文中一部敬称略)※週刊ポスト2018年11月16日号
2018.11.06 07:00
週刊ポスト
阪神・矢野新監督、金本への義理より重んじたノムラIDの教え
阪神・矢野新監督、金本への義理より重んじたノムラIDの教え
「このタイミングはすごく悩む材料になりましたが、逃げてやらずに後悔するより、やってみるべきだと思いました」 10月15日、金本知憲・前監督の辞任を受け、矢野燿大氏が第34代阪神監督に就任した。 同い年で東北福祉大の後輩でもある金本氏に請われて一軍コーチ、二軍監督を歴任。就任会見では随所に金本氏への配慮を見せた。スポーツ紙デスクが語る。「大学と現役、そして指導者と人生の半分以上を共に過ごしている。選手に対して熱くなることも多かった金本氏ですが、矢野氏が諫めれば“スマン”とすぐに収まるほど、互いに全幅の信頼を置いていた。運命共同体とも言えるほどの絆で結ばれていたからこそ、金本氏が辞任しながら自分が後釜に座ることに葛藤はあったはず。 矢野氏がそれでも監督を引き受けたのは、他に生え抜きの監督候補が複数おり、“中日から来た外様の自分が今回断わると、二度と縦ジマのユニフォームを着られなくなる”というプレッシャーを強く感じたからだといわれている」 それだけの覚悟で引き受けたからこそ、金本への想いを断ち切るべく、“脱・金本野球”に腐心しているという。デイリースポーツ元編集局長の平井隆司氏が語る。「今季は勝負がかかる9月に北條史也、原口文仁、藤川球児など主力が相次いで戦線離脱。過酷な試合日程に見舞われる不運もあったが、精神論にこだわって過酷な練習で徹底的に選手を追い込む金本野球の限界が見えた一年でもあった。 矢野氏は野村克也氏が阪神の指揮を執った3年間、正捕手としてID野球を骨の髄までたたき込まれた。今も野村氏とは密に連絡を取り合い、采配から選手育成まで監督としてのイロハを教わっている。中日時代の同僚で、研究と分析に長けた“頭脳派”の清水雅治・元楽天コーチを新体制のヘッドコーチとして招聘したのも、その流れからです。矢野政権では金本色は一掃されることになる」 義理を捨てて、冷徹になり切れるか。※週刊ポスト2018年11月2日号
2018.10.24 07:00
週刊ポスト
金本辞任で暗黒時代再び、元球団社長が明かす阪神の体質
金本辞任で暗黒時代再び、元球団社長が明かす阪神の体質
 最下位に沈んだ阪神でも金本知憲・監督が辞意表明。ペナント終盤の大失速に虎党の怒りは日増しに強まり、金本監督は「巨人は3位でも辞めないといけない。ウチは最下位ですから」と語った。坂井信也オーナーまで辞任する異常事態だが、阪神OBや元球団幹部からは「金本監督が辞めるまでの経緯がかつての暗黒時代と重なって見える」という声があがっている。 最下位が確定してからも谷本修・球団本部長は「続投の方針は変わらない」と言い続けてきたが、最後は「監督に下駄を預けて球団が悪者にならないようにする」(在阪スポーツ紙記者)という逃げの姿勢。 野村克也氏、星野仙一氏の監督時代(2001~2004年)に球団社長を務めた野崎勝義氏が語る。「阪神球団としては“最下位だから更迭”という考え方はしない。野村さんは3年連続で最下位でしたが、私は“野村野球は今後も必要”と判断し、4年目も続投を打診していた。結果的には野村さんから辞任を申し出る事態となってしまいましたが……」 監督就任1年目(1996年)、開幕直後から最下位を独走し、シーズン途中で解任された藤田平氏はこう話す。「阪神は昔から“客さえ入ればエエ”と考える球団ですから。結局は球団のビジョンや判断というより“ファンとスポーツ紙が許すか、許さないか”が最優先で、それに球団が便乗する形で去就が左右される」 成績不振の原因も、責任の所在もはっきりさせず、しかも自分の手は汚したくない──今回の金本辞任にも共通する球団の悪しき伝統が、“タイガース暗黒時代”回帰の引き金にならなければいいが。※週刊ポスト2018年10月26日号
2018.10.15 07:00
週刊ポスト
金本監督続投方針で注目集める「阪神監督1年契約」の伝統
金本監督続投方針で注目集める「阪神監督1年契約」の伝統
 昨季のセ・リーグ2位から、優勝を狙った阪神タイガースが17年ぶりの最下位でシーズンを終えることが決定した。10月に入って1勝7敗(10月8日現在。記録は以下同)と大失速。通常なら金本知憲監督の責任が問われる順位だが、フロントは昨年オフ新たに結んだ3年契約を理由に続投させる方針だという。しかし歴史を振り返ると、これは異例中の異例。野球担当記者が話す。「阪神は、伝統的に監督と1年契約しか結ばない球団でした。だから、1978年に2リーグ分裂以降球団史上初の最下位になった後藤次男氏は1年で辞めた。1985年に初の日本一になった後、暗黒時代に入った頃も同じで、1988年に吉田義男氏の後を受け継いだ村山実氏は1年契約。1990年から指揮を執った中村勝広氏も1年契約と報道されていた」(以下「」内同) この伝統が途切れたように見えた時期があったという。「中村監督は就任2年間ともに最下位でも留任し、5年間でAクラス1回でも6年目も居座った。これで、1年契約は単なる慣例と思われ始めました」 1995年のシーズン途中、中村監督に代わり、藤田平二軍監督が監督代行に。1996年は代行の文字が外れ、正式な監督に。就任を伝える1995年オフのスポーツ紙には、〈久万(俊二郎)オーナーが『5年でも10年でもやってほしい』と監督に伝え、長期政権を確約した〉(1995年10月19日 日刊スポーツ)と掲載された。 だが、1996年も低迷が続くと、シーズン途中の9月にフロントが藤田監督に解任を通告。会談は揉めに揉め、“お家騒動のタイガース”のイメージを世間に植えつける出来事となった。藤田監督は書面上では慣例で1年契約だったが、口頭で複数年契約を匂わされていたため、納得できなかったと言われている。「この騒動の影響か、翌年から指揮を執る吉田義男監督は2年契約を要求。実際に1997、1998年の2年間監督を務めました。1999年からは3年間、野村克也監督が最下位ながらも指揮を執りました」 だが、1年契約の伝統はまだ完全には終わっていなかったようだ。 2002年に就任した星野仙一監督も就任要請受諾会見で、〈(野崎勝義・球団)社長は不安そうな顔をして「長期で」と言いましたけど、1年1年、勝負の積み重ねで。僕のわがままを通してもらいました。選手も1年契約。選手と一緒だ〉(2001年12月16 日 日刊スポーツ)と語っていた。 岡田彰布監督が就任3年目を終えた2006年オフ、宮崎恒彰オーナー(当時)は契約年数について〈例え話になりますが、1年契約で優勝すればやってもらうことになりますし、3年契約にしていても、成績が悪くて監督から辞任されるケースもある〉(2006年10月19日デイリースポーツ)と話していた。“1年契約が基本線”の伝統は残っていたのだ。 2011年オフには前年に2年契約を結んだ真弓明信監督が4位に終わり解任。2012年から3年契約を結んだ和田豊監督は2014年オフに新たに1年契約を結び、2015年に3位でクライマックスシリーズ進出を果たすも、退任した。 金本監督はAクラスのチームを引き継いだにもかかわらず、就任3年で2度のBクラスを経験。3年目で最下位になっても、本当に続投するのか。ファンの不満の声は日増しに大きくなっている。
2018.10.10 07:00
NEWSポストセブン
再び暗黒期に? 阪神・金本監督は最下位でも留任するのか
再び暗黒期に? 阪神・金本監督は最下位でも留任するのか
 巨人・高橋由伸監督の電撃辞任で、阪神・金本知憲監督の去就が注目されている。10月4日に阪神・谷本修球団本部長は続投の方針を示したが、巨人の山口寿一オーナーも9月12日には高橋監督の来季続投を示唆していただけに、阪神が最下位に沈めば金本監督の状況が急転直下する可能性もある。 2人の監督は同じ2016年に就任し、現役時代と同じ背番号を付け、人気球団を指揮してきた。 高橋監督は「チームの勝敗の責任は監督が背負うもの」「(3年間で)優勝争いにも加われなかった」ことを辞任理由に挙げた。巨人はクライマックスシリーズ進出の可能性を残しているが、阪神はBクラスが確定。金本監督は3年で1度しかAクラスになっていない。野球担当記者が話す。「金本監督は昨年、新たに3年契約を結んだ。フロントは『腰を据えて若手育成に励んで、常勝チームを作ってほしい』という意向だった。金本監督なら人気もあるし、目先の勝利にこだわらなくても、ファンが騒がないだろうと予測したのではないか」(以下、「」内同) しかし、最下位となれば話は別だろう。過去の監督を見れば、1978年に球団史上初の最下位に沈んだ後藤次男氏、1987年に球団2度目の最下位になった吉田義男氏は解任された。それ以降も1996年の藤田平氏、1998年の吉田義男氏、2001年の野村克也氏らが、チームが最下位に沈むと同時に、監督の座を追われている。「2001年の野村監督は沙知代夫人の脱税事件がなければ続投方針ではありました。最下位になったものの、監督を続けたのは1988年の村山実氏、1990年、1991年の中村勝広氏の3例だけです。村山氏は1989年5位に終わると2年で退任。中村氏は1995年のシーズン途中で休養になりました。1987年から2002年まではAクラスが1992年の一度だけという暗黒時代だった。最下位だからといって、毎年監督を変えるわけにもいかない。2人は特例だったとも言えます」 人気球団である阪神は、ファンの声を他球団以上に気にする体質がある。2011年には 、4位に終わった真弓明信監督の采配がファンから痛烈に批判され、新たに結んだ2年契約の1年目ながら解任された。2012年に就任した和田豊監督は4年でAクラス3度という成績を残しながら、金本知憲監督に代わった。「2リーグ分裂以降、阪神を3年連続Aクラスに導いた監督は松木謙治郎氏、藤村富美男氏(1955年はシーズン途中に就任)、藤本定義氏、岡田彰布氏、和田豊氏の5人しかいない。それなのに、ファンの和田監督への風当たりは強かった。それと比べれば、現在のチーム成績の割に、金本監督への批判は少ないほうではないでしょうか」 フロントはファンの声に左右されず、1人の監督に任せることで長期的な展望を描こうとしている。だが、肝心の若手も思うように育っていないのが現状だ。社会人経由で2年目の糸原健斗がレギュラーに定着したくらい。大卒2年目の大山悠輔は出場機会を与えられているものの期待されるほどの活躍はできていない。東京六大学の通算安打記録を持ち、1年目の2016年にはオールスターにも出場した高山俊、昨年20本塁打を放った中谷将大は伸び悩んでいる。巨人に、22歳の岡本和真という4番打者が誕生したのと対照的だ。「既定路線で続投した場合、元中日の和田一浩氏を招聘する以外、コーチ陣は1軍と2軍の入れ替えを行なうだけで済まそうとしている。成績が付いてこないのに、これでは単なる独裁政権ですよ。大半のコーチ陣の留任が現実になれば、1990年代の暗黒時代に逆戻りする可能性もあります。あの頃は低迷していたのに、コーチ陣は球団との繋がりの深い人ばかりを呼ぶだけで、新たな血を入れようとしない年も多く、それがチームを停滞させた。金本監督が続投しても、コーチ陣は激しい入れ替えをすべき。そうしない限り、選手はシラケます」 最下位で若手も育たず、それなのに首脳陣も変わらない──。このままでは、再び暗黒時代へ突入する可能性があるだろう。
2018.10.07 16:00
NEWSポストセブン

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