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【渡哲也】に関するニュースを集めたページです。

渡哲也さんの妻、「石原プロから自由になって」が本心か
渡哲也さんの妻、「石原プロから自由になって」が本心か
 人気俳優の渡哲也さんが8月10日、肺炎で都内の病院で亡くなった。享年78だった。そんな渡さんと55年間寄り添ったのが、妻の俊子さんだ。夫婦二人の出会いからその関係性を振り返る。 渡さんと俊子さんの出会いは、学生時代にさかのぼる。芸能関係者はこう言う。「大学2年生のときです。渡さんが俊子さんの両親に挨拶したのは、渡さんが俳優になるなんて誰も思いもしなかった時期のこと。俊子さんとしても、渡瀬道彦(本名)との恋愛が、スター・渡哲也を支える人生に連なるとは、想像もしなかったでしょう。女優と浮名を流すこともあった渡さんに対し、俊子さんはジッと耐え忍んできました。気苦労は計り知れません」 結婚後も、夫唱婦随の夫婦だったとは渡さんの知人男性。「渡さんはとにかく亭主関白。家の中での渡さんは座ると動かない。俊子さんにすべてを頼むんですよ。あるとき、友人の地井武男さん(享年70)が自宅に遊びに来て、数時間席を外してから戻ってきても、渡さんは同じ姿勢のままだったと驚いていました」 渡さんが2015年に心筋梗塞を患い、老いが目に見えて進んでからもふたりの関係は変わらなかった。「渡さんが“おい”と呼べば、“はい”と駆けつける。心筋梗塞で倒れてからも、自宅に人を招いていましたが、俊子さんはお茶とケーキを出すと、すっと姿を消してしまう。“渡哲也”としての会話に入り込もうとしたことはありません」(前出・知人男性) 意外だが、そんな俊子さんを渡さんは頼りにしていた面もあるという。「会見や取材で何を話そうか迷ったときには、俊子さんに電話をかけて相談していたこともありました。決して前には出ないけれど、持ち前の明るい性格で、家庭を常に前へと引っ張っていた存在でしたね」(前出・知人男性) ただ、俊子さんは夫が銀幕のスターであることは許容できても、石原裕次郎さんの後継者で居続けることには、疑問を抱いていたのかもしれない。何より、渡さん自身がそう考えていた。石原プロ関係者はこう振り返る。「『おれが死んだら、石原プロは終わり』。それが裕次郎さんの遺言でした。ですから、渡さんとしてはその遺言を守りたかった。ところが、そうしてしまうと、相続税の支払いで苦しむまき子さん(裕次郎さんの妻)を見放すことになる。当時は銀行から8億円近くの融資を受けたばかりで、その返済も大きな問題になっていましたからね」 そこで渡さんは、裕次郎さんとの約束を先延ばしにした。ひとまずは自らが新しい看板となって石原プロを存続させることにしたのだ。「当時まき子さんはまだ50代。渡さんとしては、まき子さんと石原プロの幹部の生活を守らなければ、という気持ちが強かったのでしょう。それだけに、すべてを背負いすぎているようで、渡さんを見ていてつらかったですね」(前出・知人男性) 裕次郎さんが鬼籍に入ったのち、自らの人生を諦め、“滅私奉公”を貫いた。その時間、実に33年の長さである。「渡さんは『いい年をして刑事ドラマが本当にいいのか』と、石原プロで演じる役柄と、自分のやりたい役柄とのギャップに違和感を覚えていました。その苦悩を、俊子さんが知らないはずがない。裕次郎さんの後継者としての期待に応えるがあまり、俳優・渡哲也として独自の道を歩めない夫を、歯がゆく思っていたのは確かです。渡さんを自由にしてあげてほしい、というのが俊子さんの本音だったでしょう」(映画関係者)※女性セブン2020年9月10日号
2020.09.01 07:00
女性セブン
色々な女優から愛された(時事通信フォト)
渡哲也さん密葬、石原プロ関係者があまり呼ばれなかった理由
 渡哲也さん(享年78)は、焚き火が好きな人だった。過去のインタビューでは《この煙はどこへ行くのかな、空へ行って宇宙へ行って、宇宙の上には何があるのかななんて、答えの出ないようなことをボーッと考えてますけどね》と語っていた。宇宙を目指す、一筋の煙。渡さんは、その煙のように静かに、音も立てずに旅立った。在りし日には自宅の焚き火場を共に囲んでいたという舘ひろし(70才)や神田正輝(69才)、渡さんを慕った石原軍団の弟分たちは、その静かさにやりきれない思いを抱えている。 静かに送ってほしい──。それが、渡さんの遺言だった。舘は密葬に参列できなかったし、弔問もできていないのは、その遺志に従っているからである。「舘さんは『西部警察』で共演した渡さんを慕って石原プロに入ったんです。もうね、“尊敬”というより、“心酔”という言葉がお似合いでした。 渡さんが2017年に『松竹梅』のCMに復帰したときは、自分の出演はないのにスタジオにまで顔を出していました。周囲が舘さんに気を使うから、渡さんは帰れと言ったけど、最後まで帰らなかったですね。 2人が関係者とお寿司を食べていたときに、渡さんのイクラの軍艦巻きが倒れたんですよ。そしたら、離れたところにいた舘さんが飛んできて、スッと直してまたすぐに席に戻った。渡さんの一挙手一投足を見逃さない人なんですよ」(芸能関係者) 渡さんのことを時には兄として、親として、そして師匠として仰いだ舘にとって、渡さんは“家族同然”の存在だった。だからこそ、やりきれない思いがあるのだろう。「密葬が完全なる家族葬であったなら、まだ諦めもついたかもしれませんが、そこには“家族同然”の渡さんのマネジャー、そして石原プロの清算を主導した人物の2人も参列していました。それなら自分も…という思いはあったでしょう。せめて遺骨の前で手を合わせたいと懇願しても、事務所幹部は首を縦に振りませんでした」(石原プロ関係者) そこまでして舘をも遠ざけるのが渡さんのゆるぎない遺志であり、その遺志に忠実に従っていたのは石原プロではなく、妻の俊子さん(78才)だと、関係者は口を揃える。「なぜ、そう言い切れるのか。石原プロが密葬を主導したのであれば、裕次郎さん夫人のまき子さん(87才)が存在感を出すはずだからです。しかし彼女は密葬に参列しなかっただけでなく、追悼コメントすら出していない。事務所は健康上の理由と説明していますが、コメントぐらいは出せるでしょう…。ここに俊子さんとまき子さんとの遺恨を指摘する関係者は少なくない」(前出・芸能関係者)よい感情を持っていない 健康上の理由で石原プロの社長の座を降りていた渡さんだったが、2017年、相談取締役に復帰している。「この頃は、石原プロが揺れていてね。後進を育てて事務所を存続させるべきとする意見と、もう解散すべきという意見に割れて、団結力が弱まっていた。渡さんの役員復帰は、鉄の結束の再建という意味で必要不可欠な要素だったのです。 闘病中で体がきつい中、渡さんはまき子さんの頼みを聞き入れる形で復帰した。いくら渡さんの決断に付いていく俊子さんでも“あんまりだ…”という思いはあったはずです」(映画関係者) 持病の肺気腫が悪化し、風邪をひくだけで命に危険が及ぶ状況だった頃の話である。それでも、自分の目の黒いうちに石原プロの看板をお返ししたいと、会社の清算についての陣頭指揮を執ってきた渡さんだったが、8月10日に帰らぬ人となってしまった。「渡さんが自分の体調も顧みず事務所の運営に苦心する姿を、俊子さんはずっとそばで見てきた。一方のまき子さんは経営者としては名前だけで、亡き小林(正彦)専務や、渡さんにお任せでした。裕次郎さんのことは私がいちばん知っているという自負が原動力みたいな人でね。 裕次郎さんへの情愛ゆえだと思うけど、渡さんが方針を変えようとすると、NOとは言わないけど、よい感情を持っていない、そういう空気は常にあった。まき子さんと渡さんの関係も、すべてがうまくいっていたわけではなかったんです」(渡さんの知人男性) そんな状況を知っていたからこそ俊子さんは、渡さんの密葬に石原プロ関係者を極力呼ばなかったのかもしれない。「残された時間を家族のために使ってほしいと願っていた俊子さんは、せめて亡くなってからの時間だけでも『誰にも邪魔されたくない』と思ったのではないか。無言を貫いているまき子さんは、そんな俊子さんの考えを尊重したゆえの行動なのかもしれません。『静かに送ってほしい』というのは渡さんの遺志ですが、俊子さんの意志でもあるのです」(前出・知人男性) 裕次郎さんと渡さんの関係性はたびたび、太陽と月に例えられてきた。それぞれの引力に強く惹きつけられてきた2人の女性のあいだには、その強さだけの距離が開いているのかもしれない。※女性セブン2020年9月10日号
2020.08.28 16:00
女性セブン
【動画】渡哲也さん 吉永小百合との結婚が許されなかった理由
【動画】渡哲也さん 吉永小百合との結婚が許されなかった理由
 肺炎のために亡くなった渡哲也さん。長年の付き合いがあった吉永小百合さんは《夏の海が大好きだった渡さんは泳いで泳いで恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか》と悼みました。渡さんと吉永さんは1966年の映画『愛と死の記録』で初共演。2人の中は交際に発展し結婚も視野に入れていたそうです。しかし、作家の山科薫さんによると「吉永さんのお父さんが猛反対した」とのこと。吉永さんの父は、清純で売っていた吉永さんのイメージが傷つくことを恐れていたようです。
2020.08.27 07:00
NEWSポストセブン
松原智恵子「渡哲也さんの女性への気遣いは紳士そのものだった」
松原智恵子「渡哲也さんの女性への気遣いは紳士そのものだった」
 派手を好まず、実直で温厚、そして義理堅い。「男の憧れ」としての生き様を貫いた渡哲也さん(享年78)は、生前、石原軍団を始めとする「男たちとの交友」ばかりがクローズアップされ、女性遍歴がほとんど報じられない希有な俳優だった。 だが、その実、多くの女優に愛された人生を送っていた。若き日の吉永小百合(75)と恋の噂があったり、大原麗子さん(享年62)からは「おにいさま」と慕われていた。そして、若かりし日の知られざる有名女優との交歓は、数十年の時を経て続いていた──。 渡の女性への気遣いは紳士そのものだった。日活時代の渡の代表作『無頼』シリーズをはじめ、多くの共演経験がある松原智恵子(75)が振り返る。「不器用で無骨。でもとっても優しくてね。私を抱き抱えるシーンで『重くてゴメンね』と言うと、小さな声で、『大丈夫です』って。言葉の端々から温かみを感じる人でした。日活入社当時は、セリフを言うだけで体が硬くなる、そんな姿を覚えています。私自身もお芝居を勉強して日活に入ったわけではないので、2人とも撮影所に育てもらいました」 松原は1987年に石原裕次郎さんが亡くなった時、葬儀で渡にかけられた言葉が忘れられないという。「『チーコ、ごめんな。裕次郎さんの具合が悪いのに連絡できなくて』と律儀に謝られましてね。本当に義理堅い方なんです」 渡さんは松原を始めとする“日活同窓会”のメンバーにも、自らの闘病について語ることはほとんどなかったという。「心残りだったのが、今年の6月に同じ日活同窓会の浅丘ルリ子さんが『今度、3人で食事に行こうか』と渡さんを誘ったことがあるんです。浅丘さんは常々、ご病気された渡さんを気にかけてらしたので。結局、『体調が良くなったら』ということで先延ばしになってしまって……。もう一度、お会いしたかったです」(松原) 最後まで貫かれた渡の「男気」に、多くの女性たちが心惹かれていた。※週刊ポスト2020年9月4日号
2020.08.27 07:00
週刊ポスト
山口百恵からたったひとつの贈り物
渡哲也さんに贈られた百恵さんのマイク 三浦友和が真相語る
 今年7月に肺炎のため亡くなった渡哲也さん(享年78)。昭和の伝説的な歌手・山口百恵さん(61才)との、知られざるエピソードがある――。《もう私には必要ありませんが、渡さんがいつかステージで歌われるとき、どうか使ってください…》 1980年10月、百恵さんは日本武道館の引退コンサートで『さよならの向う側』を歌い終え、ゆっくりとステージ中央に白いマイクを置いた。 翌1981年のクリスマス。百恵さんは夫の三浦友和(68才)と渡さんの家を訪れ、冒頭の言葉を記した手紙とともに、その白いマイクを贈ったという。石原プロ関係者が言う。「しばらく石原裕次郎記念館(北海道小樽市)に飾られましたが、百恵さんの周辺から“私的なプレゼントなので展示は控えてほしい”と伝えられ、渡さんの手元に戻ってきたそうです」 一方で、「白いマイクは三浦家にずっとあった」という説もある。「長男の三浦祐太朗(36才)が2019年7月、『金スマ』(TBS系)に出演した際、マイクはリビングのショーケースに入っていて、それで歌真似をして遊んでいたと話しました。貴重なものにもかかわらず、特に叱られなかったそうです。その価値に気づいたのは思春期に入ってからだと語り、笑いを取っていました」(テレビ局関係者) 伝説のマイクの行方を知る三浦友和にどちらが真相か尋ねると、「両方とも存在しているんです」と意外な答えが。「実は、コンサート当日に使ったマイクは何本かあるんです。基本はすべて自宅で保管していますが、唯一、渡さんだけにその中の1本をお渡しさせていただきました。『西部警察』で初めて共演する前から、私たち夫婦は渡さんのファンでしたから」 とはいえ、多くの人の記憶に残るのは、ステージに置かれた“伝説の白マイク”。改めて三浦に聞くと、「自宅にあるのと渡さんに贈ったマイクのどちらがステージに置いたものかは、よくわからないんです。同じようなマイクなのでね」 とのこと。行方がつかめないのも伝説たる所以かもしれない。※女性セブン2020年9月10日号
2020.08.26 15:55
女性セブン
色々な女優から愛された(時事通信フォト)
大原麗子さん、「おにいさま」と慕った渡哲也さんとの関係
 派手を好まず、実直で温厚、そして義理堅い。「男の憧れ」としての生き様を貫いた渡哲也さん(享年78)は、生前、石原軍団を始めとする「男たちとの交友」ばかりがクローズアップされ、女性遍歴がほとんど報じられない希有な俳優だった。 だが、その実、多くの女優に愛された人生を送っていた。若かりし日の知られざる有名女優との交歓は、数十年の時を経て続いていた──。 渡を心から慕った大女優が、大原麗子さん(享年62)だ。2017年に他界した渡の実弟・渡瀬恒彦さん(享年72)の元妻である。生前、大原さんのマネージャーを40年にわたって務めた佐藤嘉余子氏が語る。「麗子さんは1973年に渡瀬さんと結婚しましたが、1975年には神経疾患であるギラン・バレー症候群を発症してしまった。夫の渡瀬さんが献身的に支えてくださいましたが、同じくらい親身になってくださったのが、渡さんでした。 渡さんはご自身が病気がちでしたし、石原裕次郎さんの闘病を支えてきた経験から、病院に詳しかった。そのツテで麗子さんは東大病院に入院することができたんです。麗子さんは渡さんのことを『おにいさま』と呼んでいて、『おにいさまのおかげで私は救われました』と深く感謝していました」 当時、大原さんは押しも押されもせぬ人気女優。一方、渡瀬さんも数多くの映画に出演していたものの、「裕次郎2世」と呼ばれスターになっていた渡さんに比べれば目立たない存在だった。 そのため、結婚後も一部のメディアの注目は渡さんと大原さんに集まり、2人の間柄が邪推されることもあったという。「渡さんの父親が亡くなった際には、葬儀での渡さんと麗子さんの並びを切り取って報じられたこともあります。確かに、2人が並ぶと絵になるんです。渡さんの奥さまから麗子さんのところに電話が来て、『誤解されないように、ちゃんとしてください!』と注意されたこともありましたが、麗子さんは『これ以上どうちゃんとすればいいのかしらねぇ』と漏らしていました(笑い)。 渡さんは女性に対してヘンな過ちは絶対に犯さない人。だからこそ、大原も信頼し、慕っていたんです」(佐藤氏) 1978年に大原さんと渡瀬さんは離婚。その後、大原さんはギラン・バレーを再発。仕事もなくなり、2009年に自宅で孤独死した。 激動の半生を送った大原さんだが、晩年になっても渡さんを慕う気持ちは変わらなかったという。「『おにいさまは私の恩人だ』と折に触れて話していました。渡瀬さんが離婚後も麗子さんを支えていたことは知られていますが、渡さんもまた、ずっと麗子さんのことを気にかけてくれていたそうです」(同前)※週刊ポスト2020年9月4日号
2020.08.26 07:00
週刊ポスト
色々な女優から愛された(時事通信フォト)
渡哲也さんと弟・渡瀬恒彦さんの絆と心震わせる男の美学
 石原軍団の解散を発表してひと月足らず、渡哲也さんが与えられた役割を終えたかのように78年の生涯を閉じた。互いに信頼し合い、深い絆で結ばれた弟・渡瀬恒彦さんがこの世を去ったのは3年前(享年72)。昭和の銀幕を駆け抜けた名優兄弟は、誰もが心震わせる男の美学を貫いた。 淡路島で育った3歳違いの兄弟は、ともに兵庫の名門・三田学園で中高時代を過ごした。青山学院大学へ進学した渡さんは、航空会社の整備士を志す。そんな兄に運命のいたずらを仕掛けたのが渡瀬さんだった。1964年日活に兄の写真を内緒で送り、就職試験に落ちた渡さんが日活を訪れるとすぐに採用され、翌年には『あばれ騎士道』で主演デビューを果たした。 早稲田大学に通った渡瀬さんは電通PRに就職するも、1969年に東映の名物プロデューサー・岡田茂氏に口説かれ、兄と同じ道を歩むことになる。1971年にNHKの連続ドラマで初めて共演したが、2011年のドラマ『帰郷』まで実に40年間、2人が同じ作品に出ることはなかった。「タイプの全く違う2人を生かす作品に巡り合えなかったのでしょう。渡瀬さんは器用で、どんな役もこなせた。渡さんには圧倒的な存在感があった。お互いがお互いにない特長を持っていました」(芸能ジャーナリスト・二田一比古氏) 仕事ではほとんど顔を合わせなかったが、双方を思いやる気持ちは強かった。「渡さんが直腸がんで入院した時、渡瀬さんは人知れず見舞いに来ていた。『明日行くので取材して』という事務所もあるけど、一切公表しなかった。渡さんは弟が亡くなった時、報道陣には気丈に振る舞っていましたが、相当塞ぎ込んでいたそうです」(同前) 1995年に阪神淡路大震災が起こると、渡さんは石原軍団を引き連れて炊き出しに出向いた。「東京の暖房の効いた部屋でニュースを見ていることに違和感を持った」という渡瀬さんも参加。5日間、グラウンドに建てたテントに泊まり込み、一人ひとりに声をかけ、約2万3400食を手渡した。 黙って動き、背中で語り合える兄弟。今ごろ2人は笑いながら思い出話に花を咲かせていることだろう。※週刊ポスト2020年9月4日号
2020.08.25 07:00
週刊ポスト
【動画】渡哲也さん 山口百恵さんに紙おむつ1年分送った過去
【動画】渡哲也さん 山口百恵さんに紙おむつ1年分送った過去
 肺炎のために亡くなった渡哲也さんと、昭和の歌姫・山口百恵さんとの意外な関係が明らかになりました。 渡さんの知人男性によると「三浦友和さんと家族ぐるみの付き合いをしていたんですよ」とのこと。 引退ライブの際に、マイクをステージに置いたエピソードで知られる百恵さん。実はこのマイクは、クリスマスに渡さんにプレゼントしていたそうです。 知人男性は「渡さんはこの贈り物を相当喜んでいてね。百恵さんが息子を産んだときには出産祝いとして、紙おむつを1年分、軽トラックに積んで自宅に贈ったそうです」と明かしています。
2020.08.25 07:00
NEWSポストセブン
色々な女優から愛された(時事通信フォト)
渡哲也さん 吉永小百合との恋愛・破局とその後の深い絆
 派手を好まず、実直で温厚、そして義理堅い。「男の憧れ」としての生き様を貫いた渡哲也さん(享年78)は、生前、石原軍団を始めとする「男たちとの交友」ばかりがクローズアップされ、女性遍歴がほとんど報じられない希有な俳優だった。 だが、その実、多くの女優に愛された人生を送っていた。若かりし日の知られざる有名女優との交歓は、数十年の時を経て続いていた──。 渡さんの訃報に触れた著名人の中で、真っ先に直筆のコメントを発表したのは、吉永小百合(75)だった。〈夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで恒彦さん(実弟の故・渡瀬恒彦さん。享年72)のところに行ってしまったのでしょうか。大きな病気を何度も乗り越えてこられたのに残念です〉 彼女の短いコメントに「深い感慨を覚える」と話すのが、芸能評論家の石川敏男氏だ。「長い芸能生活を通じて、熱愛スキャンダルと無縁で過ごした渡さんですが、ただひとり、映画関係者の間で“公然の秘密”と言われたのが、吉永さんとの関係でした」 青山学院大学を卒業後、演技の経験がないまま1964年に日活に入社した渡は、まだ無名だった1966年、映画『愛と死の記録』で吉永の相手役に抜擢される。当時、吉永と数多くの作品で共演し、「青春・純愛路線」を築いていた浜田光夫(76)が怪我で降板したために転がり込んできた大役だった。 長年、日活作品でメガホンを取った映画監督・中平康の娘で、吉永と交友のあった作家の中平まみ氏が述懐する。「渡さんはまだヨチヨチ歩きの新人で、すでにスター女優となっていた小百合に『先輩、演技のことを教えてください』と教えを乞うていました。 彼はアクション以外の本格的な演技が初めて。学生時代に空手に打ち込んでいた渡さんは、小百合好みの朴訥なタイプで、波長が合ったのでしょうね。2人は急接近し、渡さんは小百合のことを、親しい仲間うちでは『うちのカミさん』と呼んでいたといいます」 だが、現実に結ばれることはなかった。吉永の両親の猛反対があったからだといわれる。「小百合は両親に結婚する意思を伝えていましたが、芸能活動に何かと口出ししていた両親は、『あんなにモテる男じゃ苦労する』と、なかば無理矢理引き離そうとしました」(中平氏) 両親を説得できなかった吉永は、渡さんに「あなたとは結婚できません」と涙ながらに伝えたという。こうして2人の恋愛は終焉を迎え、渡さんは1971年に青山学院大学の1年後輩だった俊子さんと結婚。吉永も1973年に15歳年上のフジテレビディレクター・岡田太郎氏と結ばれた。 しかし、それぞれが伴侶を得た後も2人の絆が切れることはなかった。1998年公開の映画『時雨の記』では、吉永が渡さんを相手役に指名。渡さんが長年出演していた宝酒造「松竹梅」のCMにも吉永はたびたび出演した。2人を知る芸能関係者が明かす。「2004年、渡さんが長年行きつけの都内のイタリアンレストランに、吉永さんを連れてきたことがあったそうです。吉永さんもお店が気に入ったようで、その後数年にわたり、お店が2人の逢瀬の場になったと聞いています。 吉永さんはお店が出す『ウニのジュレ』が好きで、よく渡さんと一緒に召し上がっていたみたい。店長も2人が来る時は厳戒態勢で、外にマスコミがいないかチェックしていたとか(笑い)。時にはお互いの友人を交えたり、渡さんが妻を、吉永さんが夫を連れてきたこともあったそうです」 渡さんにとって最後の公の場となったのは、2017年9月の「松竹梅」のCM収録。この時も、傍らにいたのは吉永だった。 収録後、記者を前に、吉永に「最後の1本はラブシーンをやりましょう」と呼びかけ、吉永も「老夫婦の恋愛作品を作りましょう」と応じていた。 2019年9月に行なわれた同CM収録も共演相手は吉永だったが、現場に取材陣を入れなかった。この撮影が、2人にとって最後の共演現場になった。※週刊ポスト2020年9月4日号
2020.08.24 16:00
週刊ポスト
週刊ポスト 2020年9月4日号目次
週刊ポスト 2020年9月4日号目次
週刊ポスト 2020年9月4日号目次安倍首相「本当の容態」“辞任秒読み”で動き出した「新・五人組」クーデター 特集◆大女優たちが惚れ込んだ 渡哲也(享年78)「永遠の男気」◆ビートたけし『21世紀毒談』オイラの「奢りの作法」は渡哲也さん直伝なんだっての◆チコちゃんが叱られる!? 研究者が「違う説もあるんだよ」◆もし、あの時「大型合併」が現実のものとなっていたら…◆「パパ活アプリ」に月1000万円注ぎ込んだ「あのセレブ経営者」 ◆「危ない医者」に気をつけろ!・行政処分医師・無給医を放置・銭ゲバ町医者・看護師ホンネ座談会◆コロナ第2波「すぐそこにある恐怖」患者と家族が明かす“闘病最前線”・61歳男性が壮絶告白!「人工肺 ECMO」45日目の生還・ツレが“濃厚接触者”になりまして 真夏の「自宅隔離生活」体験記◆最新ルール「配偶者居住権」が親子の争いのタネに!?揉める遺産相続 
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2020.08.24 07:00
週刊ポスト
妻とのショット
吉永小百合、松坂慶子… 渡哲也さん、名女優との2ショット
“相手によって態度を変えない”──故・石原裕次郎さん(享年52)に憧れて芸能界入りをした渡哲也さん(享年78)が、8月10日に肺炎のため家族に見守られながら旅立った。生涯をかけて貫いたのは冒頭の石原さんのこの美学。当時大スターの石原さんが初対面の渡に対し、両手で握手を求めてきたことに渡さんは感激したという。 石原さんの遺志を継ぐように、渡さんの懐の深さや優しく親しみのある人柄は、ファンだけでなく共演者からも愛された。“男・渡哲也”に惚れた女優と、最も愛し愛された家族との貴重な写真を振り返る。1973年 妻・俊子さん 1972年11月に誕生した長男を抱いて散歩に出かける一家を本誌・女性セブンがキャッチ。(1973年)。兵庫県淡路島出身の渡さんは「彼女の都会的なところに惹かれた」と婚約発表(1970年 10月)のときに明かしていた。1998年 吉永小百合(75才)「夏の海が好きだった渡さんは、泳いで泳いで、恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか」と吉永小百合。映画『時雨の記』(1998年)で29年ぶりの共演となった2人は、1966年『愛と死の記録』で初共演以来50年にわたり公私のつきあいがあった。1986年 いしだあゆみ(72才)1986年、いしだあゆみとのデュエット曲『わかれ道』を発売。男と女の別れをしみじみ歌い上げた。1988年 松坂慶子(68才)1988年『ラストシーンは見たくない』を松坂慶子とのデュエットで発売。1987年 長山藍子(79才)ドラマ『待っていたんだ~ボランティアより~』(TBS系)で長山藍子と共演。長山演じる派遣家政婦に恋心が芽生える物語。1984年 十朱幸代(77才)十朱幸代のブルーリボン賞主演女優賞受賞パーティーにかけつけた渡さん。1996年 南野陽子(53才)1996年、舞台『信長』で濃姫役の南野陽子と。撮影/女性セブン写真部※女性セブン2020年9月3日号
2020.08.22 16:00
女性セブン
石原プロ創立20周年記念のケーキのロウソクを吹き消す裕次郎さん(中央)と渡さん(右)
渡哲也さん 最後まで消えなかった石原裕次郎さんへの情熱
 8月10日、俳優・渡哲也さんが肺炎で亡くなった。78才だった。1964年に日活で俳優デビューを飾った渡さんは、1971年に石原裕次郎さん(享年52)が率いる石原プロモーションに入社した。1987年に裕次郎さんが亡くなると、渡さんは石原プロの二代目社長に就任。2011年に社長を退任するも、2017年に取締役に復帰した。「先代(裕次郎さん)に看板を汚さずに返したい」――。渡さんは生前、繰り返しこの言葉をつぶやいていた。「裕次郎さんは映画製作の大変さを痛いほど知っていたため、石原プロを一代限りで閉じることを望んでいました。しかし、渡さんは、まき子夫人や若手の俳優陣の生活を守るために、裕次郎さんに“背いて”石原プロを維持することに東奔西走する道を選んだのです」(映画関係者) ただ、その道のりは平坦なものではなかった。自分自身の病に加え、小林正彦専務(享年80)との決別、そして弟の渡瀬恒彦さん(享年72)が先立つ悲しみの淵に沈んだ。「渡さんは自分ががんになってもたばこをやめなかったけど、恒さんはがんで苦しんでいる渡さんの様子を間近で見て、たばこをきっぱりとやめたような人。そんな調子だから、渡さんは確実に自分が先に死ぬと思い、恒さんに遺言を託していたほどでした。恒さんが亡くなったときは、渡さんも肺気腫などの持病が悪化していた時期で、その頃から会社の清算について、本腰を入れるようになりましたね」(前出・映画関係者) 渡さんは2017年に取締役に返り咲くが、これも会社を閉じるための動きだった。 今年に入って、裕次郎さんの遺品管理を行う団体を設立し、関連会社の清算も同時に進めた。そして、来年1月16日に石原プロの解散をすると発表する段階にまで漕ぎつけたのが、渡さんの亡くなる1か月前、裕次郎さんの命日である7月17日のことだった。かつて石原プロで常務取締役を務めた仲川幸夫さん(80才)はこう話す。「石原プロの看板を、裕次郎さんにお返しする来年1月まで生きられなかったことがご本人も無念だったと思います。生前、渡さんは『石原さんの自宅にある仏壇に手を合わせられない体になっちゃって、ほんとう不義理だよ』と、悔しい思いを口にしていました。どんな状況でも、裕次郎さんへの情熱は消えないかたでした」 解散より一足先に会いに来た渡さんを、裕次郎さんは優しく叱るだろう。その後、「哲、ようやく一緒に酒が飲めるな」なんて豪快に笑いながら喜んでいるのかもしれない。※女性セブン2020年9月3日号
2020.08.22 07:00
女性セブン
渡哲也さん 吉永小百合との恋、結婚が許されなかった理由
渡哲也さん 吉永小百合との恋、結婚が許されなかった理由
 俳優の渡哲也さんが8月10日、肺炎のため亡くなった。78才だった。渡さんの体調が急変したのは8月9日未明のこと。午前4時に緊急搬送された。緊急搬送前に渡さんと会った知人はこう話す。「渡さんは、最期の苦しむ姿を石原軍団の人たちには見せたくなかったんじゃないかな。肺気腫の症状がかなりつらそうで、『肺が左右両方潰れているみたいだ』と聞いた。でも、肺が機能しなくなっても最期まで、俳優・渡哲也の風格を失っていませんでした」 渡さんは長年、肺気腫を患っていた。医療ガバナンス研究所理事長で内科医の上昌広さんが解説する。「肺気腫とは、肺の中にある肺胞が壊れてしまっている状態です。空気を吸って吐く際には、この肺胞が伸び縮みしますが、機能しなくなると、濁った空気を体の外に出せず、新鮮な空気を取り入れることができなくなり、息苦しくなってしまうのです」 肺が両方とも潰れる──この状態になると、生活はどう変わってしまうのか。「肺気腫で両肺が潰れるというのは、かなりの重症です。全速力で走った後のような息苦しさが続き、酸素吸入器が必要になる。最期は肺炎で亡くなったということで、空気のないところで呼吸をするような苦しさがあったのかもしれません」(前出・上さん) 渡さんは若い頃から、病魔に蝕まれていた。1972年、葉間肋膜炎。1974年、胸膜癒着症で大河ドラマ『勝海舟』を途中降板。1975年、肺感染症。その後、体調は回復したかに見えていたが、1991年に直腸がんの手術の結果、人工肛門での暮らしとなり、2015年、急性心筋梗塞。2016年には、肺気腫や喘息などのため、酸素吸入器をつけて生活していることを明かしていた。 この長く続く闘病の間、ひとときたりともそばを離れなかったのが妻の俊子さんだ。ふたりは、青山学院大学在学中に知り合っていた。「渡さんは空手部に在籍していましたが、その渡さんが一目惚れしたのが、大手鉄鋼会社役員の娘である俊子さんでした。結婚式は1971年にハワイで、ふたりだけで挙げています」(芸能関係者) 学生時代の恋愛を貫いての結婚。しかし、正直者すぎる渡さんは婚約会見で、こんなことを口にしていた。「ほかの女性に目移りしたこともありました。別れ話も二、三度ありました。浮気も多分、これからも多少…」手編みの座布団 そういう時代だった、と言えなくもない。しかしこのとき、渡さんの頭には、昭和を代表する、ある女優の姿が浮かんでいたのかもしれない。《夏の海が大好きだった渡さんは、泳いで泳いで恒彦さんのところに行ってしまったのでしょうか》 3年前に亡くなった渡さんの弟の渡瀬恒彦さん(享年72)が待つ天国へ旅立った渡さんを、独特な表現で悼んだのは吉永小百合(75才)だ。 渡さんと吉永は、1966年の映画『愛と死の記録』で初共演。このとき渡さんは25才で吉永は22才。若い2人はすぐに急接近した。「あの映画には、中尾彬も出演していたんだけど、当時は中尾が小百合ちゃんにラブレターを送ったりして、入れ込んでいた時期でね。その相談相手が、渡さんだったんだよ。初めて出会ったのは広島のロケ地だったはず。渡さんは、大学時代から憧れていた小百合ちゃんの前でガチガチだったそうですよ。素人同然でデビューした翌年のことでしたからね。でも、その雰囲気が小百合ちゃんにはかえって新鮮で、惹かれるものがあったんでしょう」(映画関係者) 別の映画関係者も、吉永が渡さんに思いを寄せていく様子をよく覚えているという。「小百合さんは手先が器用でね、手編みの座布団を渡さんに贈っていた。渡さんは『ありがたくないな、こんなものを。恥ずかしくて使えないよな』と頭を掻きながらもうれしそうにしていましたね。当時、小百合さんのことを“カミさん”って呼んでいました。みんなは“小百合ちゃん”だったけど『愛と死の記録』で恋人役を演じてから、渡さんだけ“カミさん”でした。誰から見ても相思相愛でしたよ」 2人の交際は2年ほど続き、当然の帰結として結婚も考えていたという。しかし、それは許されなかった。『吉永小百合の愛し方』(ベストセラーズ)著者の山科薫さんが語る。「とにかく、吉永さんのお父さんが猛反対したんです。渡さんとの結婚が、というよりも結婚そのものを認めようとしなかった。吉永さんは清純なイメージで売っていましたから、そのイメージが傷つくことを恐れたのです。吉永さんに専業主婦になってほしがっていた、渡さんのご両親の意向にも吉永さんのお父さんが大反対だったようですね」 渡さんの評伝『渡哲也 俺』(柏木純一著/毎日新聞社)には、当時を振り返る吉永のこんな言葉が記録されている。「どちらかがやめれば成立するのでしょうが、役者同士の結婚は絶対に無理だと思っていた」 それが、吉永の偽らざる気持ちだったのだろう。悲恋に終わった2人だが、互いに結婚した後も、共演者としては息の合うところをたびたび見せてきた。そこに見られるのは、スターとスターだからこそ築ける、誰も立ち入れない関係性だ。「2人は1998年公開の映画『時雨の記』で共演していますが、これは約30年ぶりの共演でした」(前出・映画関係者) そこで2人が演じたのは、プラトニックな恋におぼれる妻帯者と未亡人だった。「原作は1970年代に書かれた小説で、吉永さん自身が長年、映画化を夢見て企画した意欲作でもありました」(前出・映画関係者) そうした役柄での共演は、否が応でも耳目を集める。映画公開の記念イベントでは、『不倫についてどう思うか』という直球の質問も投げかけられた。 渡さんは受けて立った。《世の中には本音と建て前があって、もしバレなければあってもいい》と“肯定”すると、《人が人を好きになるという気持ちは誰にも止められない。ずっと恋をしていくのが人間》と吉永も調子を合わせる。 秘められた恋を肯定する2人は、リップサービスだったのか、役が抜けないのか、はたまた結ばれなかった若き日の恋に思いを馳せていたのか、イベント会場の誰もが2人の真意を探ろうと必死だったという。※女性セブン2020年9月3日号
2020.08.21 07:00
女性セブン
記者の目を見て話を聞く舘
舘ひろし、渡哲也さんの遺骨に手を合わせることもできず
 寝室と呼ぶには広すぎる2階の部屋には、ベッドのほか、来客をもてなせるテーブルと椅子や、リハビリ用のウオーキングマシンが置かれている。2015年に心筋梗塞を患った際、妻の俊子さんが用意したものだ。 その広い寝室で、渡哲也さん(享年78)の体調が急変したのは8月9日未明のことだった。午前4時に緊急搬送。病状を確認した医師は、「体力がもたなそうです。長くても2週間と覚悟してください」 と余命を宣告する。しかし、病と闘い続けてきた体はその2週間を耐えることができず、翌10日午後6時半、肺炎のために帰らぬ人となった。 緊急搬送の前日まで、渡さんは元気だったと事務所関係者は語る。亡くなる3日前には、友人のみのもんた(75才)と電話で話をしていた。みのが寂しそうに語る。「酸素吸入をしながらなので、息苦しそうなガサガサした声でしたが、それでも『なにしてる?』『元気になったら銀座で飲みましょう』と励まし合ってね。もう何年も、月初めに電話をくれるんです。こんなに律儀な人は芸能界広しといえど渡さんだけですよ」 渡さんのデビュー作『あばれ騎士道』(1965年)や『東京流れ者』(1966年)など数々の映画で共演してきた女優・松原智恵子(75才)も声を落とす。「私たち日活出身者は、年に一度くらい “仲間の会”を開いていたんです。(吉永)小百合ちゃんとか、和泉雅子さん、(高橋)英樹さんらとね。ただ、ここ3年ほど集まっていなかったので、浅丘ルリ子さんが『また集まって食事でも』と動いてくださったんです。今年6月に渡さんにもお声がけされたのですが『いまは体調を崩しているから、もう少し先のときに行けたら』とおっしゃったそうで…大変残念です」 謙虚で律儀で真面目。オーラはあるけど、親しみ深い。渡さんを知る人の評価はおおよそこんな感じだ。 渡さんが石原裕次郎さんの背中を追いかけたように、渡さんの背中を追いかけ、石原プロの“鉄の結束”を守り続けた舘ひろし(70才)はその性格にいちばん間近で触れたひとりだろう。しかしその舘も、渡さんの最期に立ち会えなかった。そして、密葬にも参列できていない。「そこには、渡さんが俊子さんに遺した遺言が大きくかかわっているんです」 とは、事務所関係者。「『死に人に構う時間があるのなら、生きている自分自身のために時間を使ってほしい』というのが渡さんの遺言。これを俊子さんに口酸っぱく話していたようで、石原軍団は俊子さんの“遺言を果たす”という思いを汲み、いまはその言葉に従っているんですよ。舘さんは訃報を聞いた後のCMや映画の撮影も、普段通りにこなしています」(事務所関係者) しかし、事情をよく知る関係者の話はやや異なる。「舘さんは石原プロの幹部に弔問をしたいと伝えたけれどもそれも叶わなかった。渡さんの自宅にある祭壇には遺骨もあるが、手を合わせることもできていないんです」 お別れの会すらも開催の予定はないという。その理由を石原良純(58才)に聞かれた舘は、こう答えた。「それは上が決めているんだ。ぼくらがどう思おうと上が決めているんだから」 沈黙を貫く理由を、事務所側は「静かに送ってほしい」という“渡さんの遺志”と発表するが、舘は“上の決定”と表現する。そこにわずかな“鉄の結束”の綻びが透けて見える。「(裕次郎さんの妻の)まき子さんと、俊子さんの間で意思の疎通が取れていないこともこの状況を生んでいる要因なのかもしれないね」(前出・事情をよく知る関係者) 17日、仕事終わりの舘に声を掛けると、わざわざ足を止めて寂しそうな笑みを浮かべながら、「ごめんなさいね」 と、丁寧に頭を下げてから自宅へと戻っていった。※女性セブン2020年9月3日号
2020.08.20 16:00
女性セブン
渡哲也さん 山口百恵の“最後のマイク”贈られた、その行方
渡哲也さん 山口百恵の“最後のマイク”贈られた、その行方
 8月10日、肺炎のために亡くなった渡哲也さん(享年78)。かつては、吉永小百合(75才)や、浅丘ルリ子(80才)、十朱幸代(77才)との浮名が立ち、ほかの女優や歌手が好きな俳優として渡さんの名前をあげることも多かった。1970年代後半から1980年代前半には、週刊誌が“女性支持率ナンバー1”ともてはやすほどの渡フィーバーが巻き起こっていたのだ。 しかし一方で、昭和の歌姫・山口百恵さん(61才)との意外な関係性が世間で騒がれることはこれまでなかった。「百恵さんと渡さんは恋仲ではないんですけどね。実は、三浦友和さん(68才)と家族ぐるみのつきあいをしていたんですよ」 とは、渡さんの知人男性。「渡さんと三浦さんは『西部警察』での共演をきっかけに親しくなって、両方の家を行き来する仲のよさでした。石原裕次郎さんのハワイの別荘に三浦さんと百恵さんが訪れて、石原軍団に歓待されたこともありました」(知人男性) 百恵さんと渡さんの親交の深さを証明するのが“あのマイク”だ。 1980年10月5日、かすみ草で髪を飾り、白いドレスを着た百恵さんが『さよならの向う側』を歌い終え、日本武道館のステージ中央に静かに置いた白いマイク。このマイクが、後に渡さんの手に握られたのだ。「翌年のクリスマスに渡さんの自宅で開かれたクリスマスパーティーに参加した百恵さんが、クリスマスプレゼントとして、伝説となったマイクを贈ったんですよ。そこには《もう私には必要ありませんが、渡さんがいつかステージで歌われるときにどうか使ってください》という手紙が添えられていたそうです」(前出・知人男性) その願いを、渡さんは7年後に叶える。1988年末に大阪で開催した渡さんにとって初めてのディナーショーで、そのマイクを手に、前年に故人となっていた裕次郎さんの曲などを熱唱したのだ。「渡さんはこの贈り物を相当喜んでいてね、百恵さんが息子の祐太朗くん(36才)を産んだときには出産祝いとして、紙おむつを1年分、軽トラックに積んで自宅に贈ったそうです」(前出・知人男性)“返礼品”もさすがは石原軍団。量が規格外である。 渡さんと百恵さん、2人の関係性を示すマイクのその後の行方を知るのは、かつて石原プロで常務取締役を務めた仲川幸夫さん(80才)だ。「小林(正彦)専務(享年80)が、『石原裕次郎記念館を開くから、そこに飾らせてよ』って渡さんに言ったんですよ。渡さんも、裕次郎さんのためならなんでも差し出す真面目なかたですからね。『もちろんいいですよ』ということで、北海道・小樽市の記念館に展示されることになったんです」 しかし、意外な展開に。「(百恵さんが所属していた)ホリプロから『プライベートで贈ったものなので展示は控えてくださると…』と注意が入ってね。展示から外して、渡さんのご自宅に返しました。いまも自宅にあるんじゃないかな」(前出・仲川さん) この世にたった1本しかないマイクを巡るユニークな縁がそこにあった。※女性セブン2020年9月3日号
2020.08.20 07:00
女性セブン

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