がんステージIVのママ一覧

21歳で大腸がんステージIVと診断され、23歳で出産。娘を育てながらの闘病の日々を日記に記している、遠藤和(のどか)さんに関する記事です。

『ママがもうこの世界にいなくても』
女優・田中真琴「がんステージIVのママに問われた結婚観」
 青森県出身の遠藤和(のどか)さんは、21才で大腸がんステージIVを宣告され、22才で結婚、23才で娘を出産。娘の1才の誕生日を見届け、2021年9月に24才でこの世を去った。女優の田中真琴さん(27才)は、和さんの日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』に「怖いくらい引き込まれた」という。「同世代に彼女の言葉を届けたい」と語る彼女に話を聞いた。 * * *『ママがもうこの世界にいなくても』を読み始めたのは、夜も遅くなってから、23時も過ぎていた頃でした。 もちろん最初は一人の読者として読んでいました。でも、気づいたら、昔なじみの友達からLINEで、その日にあったことの報告を受けるような気持ちになっていました。この本が日記形式だからかもしれません。著者と読者というよりも、もっともっと近い距離で、話を聞いているようなイメージです。「大変なんだね」「大丈夫だよ」と心の中で相づちを打ちながら読み進めたら、もう止まらなくて、3時間超かけて夜中に一気読みしました。 胸が締め付けられるようなシーンもあったけれど、励まされるシーンもたくさんあった。のめりこんだぶん、つらくて、悲しかったです。次の日は夕方くらいまでお腹が空かなかったな……。 闘病記は、これまで何冊か読んだことがあります。だけど、ここまで私と共通点が多い方の本は初めてでした。和さんは、私と同じで「結婚したい」「子供が欲しい」という思いを持っている、同世代の“普通の女の子”でした。でも、突然のがんの宣告。自分ががんになるなんて考えたこともなかったけれど、まるで自分の身に起きたことのようにリアルに感じられました。 がんと診断されたときに、すでにステージIVというのは、本当に悔しかったと思います。私も和さんの影響で、少しでもどこかに痛みを感じたらすぐに病院に行くようになりました。この間も、夜眠れないくらい肩甲骨の下が痛んだので、怖くなって診察を受けたんです。結果はただの筋肉痛だったので大したことなかったんですけど、それでもホッとしました。 自分の住んでいる地域の健診センターの予約もしました。「まだ若いから」とか言っていないで、健康診断はとにかく定期的に受けたほうがいいと感じたんです。 先述したように私は結婚したいと思っているのですが、結婚観も揺さぶられました。 和さんの夫の将一さんが素敵すぎて!  何年か付き合って、結婚を考えたタイミングで相手にがんが発覚したら、少しくらい迷うと思うんです。でも、将一さんは「一緒にいる」「大丈夫だから」と即答でした。これほどストレートな言葉で安心させてくれる人、いるでしょうか?  何がここまで彼を動かしたんだろう、それをずっと考えさせられています。 がんがステージIVとわかっても、将一さんの気持ちは変わりませんでした。それもすごいことだと思います。いずれは、彼女不在で彼女のご実家とコミュニケーションを取らなければならないでしょうし、彼女と過ごした時間よりも、彼女のご実家のご家族と過ごす時間のほうが長くなるかもしれない。「結婚」ということを考えたときに、私も、これから出会うであろうパートナーも、そこまでの覚悟が持てるかな、と考えさせられました。 一方で、私も和さんと同じように「ママになりたい」と強く願っています。結婚願望よりも、そっちのほうが強いくらいです(笑い)。なんで? と聞かれると……理由を説明するのは難しいですね。でも確かに、自分の中にそういう気持ちが存在するんです。 抗がん剤治療の開始を延期して、卵子凍結に臨んだシーンはとても印象に残りました。がんとは関係なく、自分の選択肢にもなりえると感じて、けっこう熱心に調べました。 和さんがステージIVのがんを患いながら娘さんを生んだことに対して、「無責任」などといわれのない批判があったそうですね。夫婦の問題とは思いながら、私も「子供はすごく欲しいけれど、自分ががんになったとして、抗がん剤をやめてまで望むだろうか」と自問自答していました。 でも「和を喪ったいま、そばにいてくれる娘が、どれだけ僕の救いになっているか」という将一さんの言葉に、はっとしました。いまでは、自分が亡くなるとわかっていたとしても、パートナーがいたら、遺されるほうのために子供を生みたい、そういう気持ちを持つようになりました。 和さんが亡くなってしまったのは悲しいことだけれども、悲しいだけで終わらせたくないと感じています。例えば、15~39才の「AYA世代」のがん患者さんへのサポートが、ほかの世代と比べて充実していないということを今回初めて知ったので、何か力になれないかとか。同世代の人に、定期健診の大切さを訴えていきたいとか。彼女の思いを知ったから、自分もやるべきことがあるのではないか、できることがあるのではないかと考え続けています。◆田中真琴(たなか・まこと)女優。1995年京都府生まれ。「2014年度ミス佛教大学」でグランプリに選ばれる。出演は「あざとくて何が悪いの?」(テレビ朝日系)、「マヂカルクリエイターズ」(テレビ東京系)など。2022年4月15日スタート『インビジブル』(TBS系)に出演予定。
2022.04.02 16:00
NEWSポストセブン
杉浦太陽
俳優、タレント・杉浦太陽「子育てに一段落はない。ずっと山が続きます」
 俳優、タレントの杉浦太陽さんは妻でタレントの辻希美さんと今年で結婚15年目。1女3男の父親でもある彼は、書籍『ママがもうこの世界にいなくても』の著者で、ステージIVの大腸がんと闘った遠藤和(のどか)さんを支えた夫の将一さんに共感した部分が多々あると話す。 * * * 本は、和さんの視点で、日記形式で綴られています。耳あたりのいい“感動エピソード”だけではなくて、すごくよかった。夫婦の実情がしっかり描かれていると感じました。和さんは「遠藤さんとケンカした」とか「ムカつく」とかも書き記していましたが、男目線から「このとき将一さんはきっとこういう気持ちだったんだろうな」と感じた部分もありました。将一さんも、僕と同じように結婚当初は独身気分の抜けないところがあったのかもしれません(笑い)。 もちろん、将一さんはこれ以上できないというぐらい、和さんをしっかりと支えていたと思います。日記には、将一さんが夫、そして父親になるという自覚をもつ過程が鮮やかに描かれていました。特に和さんが妊娠してからは、それが日に日に色濃くなっていくのが印象的でした。 結婚して家族になると「幸せだからなんでもいい」とか、楽しいことだけを言っていられるわけではない。もっと現実的な問題と向き合うことになるわけです。子どものこと、老後のこと、親類縁者のこと、介護のことなど、なかには目を背けたいこともある。そういうことに一つ一つ、時間をかけて夫婦で向き合うことで、家族になっていくものだと思うんです その点、遠藤家はものすごい急ピッチで絆を深めて、家族になったのだろうと感じました。和さんが21才でがんの宣告を受けてから24才で亡くなるまでの3年間で、闘病、妊娠、出産、育児を経験されたわけですから。 将一さんの目線で読んだ僕は、妻の家族との距離感にもとても共感しました。杉浦家は、妻の家族が徒歩圏内、僕の実家は大阪だから、和さんの実家の櫛引家が近くにいて、将一さんの実家は北海道というのは似たようなシチュエーションだなと。自分の家族より妻の家族との方が、距離が近くなるんですよね。 心の距離は、自然とは近くならないんですよ!  溶け込む努力はしました。頻繁に遊びに行ったり、一緒にお酒を飲んだり、買い物をしたり、旅行に行ったり。その結果、この15年で「家族」になることができたと思っています。  現在、将一さんは、シングルファーザーです。仕事をしながらの子育ては楽ではないと思いますが、楽しいと思う瞬間もたくさんあるはずです。えらそうなことはあまり言えないですが、子育て経験者としては、娘さんに「パパのこと嫌い!」って言われても真に受けないことが大事です(笑い)。けっこう凹みますが、子どもの感情はコロコロ変わりますし、好きにさせる努力をしたりもできますから、どこかで挽回すればいいんです。 その子の「いま」は、いましかない。見逃したらもったいないと思うと同時に、子育ては「山」の連続だとも思います。成長したら落ち着くかと思いきや、そんなことはない(笑い)。1才には1才の山、5才には5才の山、10才には10才の山がそれぞれあります。山を越え続けることで、親として成長させてもらっているという感覚です。 和さんがこの世界にいられたのは、まだ娘さんが言葉も話せない時期でした。伝えたかったこと、話したかったことなど、いろいろな思いは残っているだろうとは思います。けれど、娘さんがいつか大きくなってこの本を読んだときには「お母さんはこんなに頑張ってきたんだよ」と、きっと伝わると確信しています。◆杉浦太陽(すぎうら・たいよう)1981年生まれ。大阪府出身。1998年、テレビ朝日系ドラマ『おそるべしっっ!!音無可憐さん』でデビュー。 2001年TBS系ドラマ『ウルトラマンコスモス』で主役を務め、一躍注目を浴びる。NHK Eテレ『趣味の園芸 やさいの時間』、BS日テレ『旬感レシピ』、TOKYO FM『TOKYOこどもTIMES』などにレギュラー出演中。
2022.03.30 16:00
NEWSポストセブン
杉浦太陽
俳優、タレント・杉浦太陽が振り返る結婚生活15年「死ぬのは僕が先がいい」
 今年、俳優、タレントの杉浦太陽さんは、妻でタレントの辻希美さんと結婚15年目を迎える。現在、1女3男と4人の子を育てる父親でもある杉浦さんに、夫婦の歩んできた道のりと家族の形、そして今後の人生についてインタビューをした。 * * * 一番上の子はこの春から中学3年生で、下の子は3歳です。いまでこそ、僕も4児の父親としての自覚を持てるようになりましたが、新婚時代は遊び歩きたくて、すごくつらかった思い出があります(笑い)。妻が風邪をひいているのにもかかわらず友達と飲み歩いてしまい、機嫌を損ねた経験も……。いまなら「ダメだろ」って思いますけど。でも、そういう時代は確かにありました。 結婚3年目には離婚危機もありました。それを乗り越えて、いまは、夫婦だったらケンカはするし、意図が伝わらずに誤解して不穏になることもある。それを繰り返しながら絆を深めていくのが「夫婦」だと実感しています。 危機といえば、僕が31才のときに妻が倒れてICUに入ったときには、生きた心地がしなかったです。無菌性髄膜炎という病気だったのですが、よりによって自分がMCを務める番組の地方ロケで僕が不在にしているときだったんです。電話口で先生から「覚悟しておいてください」と言われて……頭が真っ白になりました。 もちろん治ってほしいと祈りました。それでも同時に、子どものこと、今後のことを真剣に考えてしまった。妻が戻って来ると信じながら、先のことも意識しなきゃいけないという極限状態を経験しました。 最近、『ママがもうこの世界にいなくても』という本を読んで、焦りまくったあのときのことがフラッシュバックしました。偶然にも、著者である遠藤和(のどか)さんの大腸がんの闘病を支えた夫の将一さんは、現在31才。そして、僕も将一さんも妻のことを、愛称で「のん」と呼んでいます。自分が妻の緊急入院時にあれほど精神的に追い込まれたことを考えると、将一さんは一体どれほどの思いを抱えていたのか……。 和さんと将一さんは、ステージⅣのがんと闘いながら、子どもをもつことを決意します。夫の立場から見て、子どもの命と引き換えに「妻がいなくなるかもしれない」という状況は想像を絶します。新婚当初の僕がもし同じような状況に置かれていたら、子どもより妻を選んだかもしれません。そもそも妻が好きで、一生一緒にいたいと思って結婚したので。だからこそ、勇気ある選択をしたおふたりをとてもリスペクトします。  僕たち夫婦の“この先”についても考えさせられました。僕だったら、妻に「痛い、つらい、治療やめたい」と言われたら、「もうやめていい、あとは穏やかに過ごそう」って言ってしまいそうな気がします。こればかりは正解がないことだから、難しいですね。 妻の看取りはしたくないとも強く思いました。考えただけでも、言葉では言い表せないくらいつらい。死ぬのは僕が先がいいです。でも、僕たち夫婦にも、いずれ引き裂かれる日は来る。それまで夫婦で、どのように生きていくのか。1日も無駄にはできないなと強く思って、目頭が熱くなりました。◆杉浦太陽(すぎうら・たいよう)1981年生まれ。大阪府出身。1998年、テレビ朝日系ドラマ『おそるべしっっ!!音無可憐さん』でデビュー。 2001年TBS系ドラマ『ウルトラマンコスモス』で主役を務め、一躍注目を浴びる。NHK Eテレ『趣味の園芸 やさいの時間』、BS日テレ『旬感レシピ』、TOKYO FM『TOKYOこどもTIMES』などにレギュラー出演中。撮影/平野哲郎
2022.03.29 16:00
NEWSポストセブン
遺された娘にどう伝えるか…
ステージIVのママ“その後の家族の物語” 成長する娘に父「いつか話さないと」
 ステージIVの大腸がんの闘病の末、2021年9月に24才で亡くなった遠藤和さん。彼女が娘のために綴った日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』が、2月期の『単行本・文芸書』のベストセラーランキング(2月8日トーハン調べ)で9位にランクインするなど、話題を呼んでいる。そこで、母の死から半年が経過した遠藤家を訪ねた。 北海道出身で都内に勤務する遠藤将一さん(31才)は、1才半の娘を持つシングルファーザーとして、奮闘する毎日を送る。 平日も休日も朝は早い。7時半にはおむつを交換し、朝食をつくる。「今日は耳を切った食パン、ヨーグルトを30g、バナナとトマトを半分ずつ。娘はよく食べますね。ぼくと違ってぜんぜん好き嫌いはない。20分くらいでペロリです」(将一さん) 7時45分から始まる『おかあさんといっしょ』(NHK Eテレ)を見たら、パジャマからお着替え。温かみのある黄色のチョッキや帽子は、2021年9月に亡くなった妻の遠藤和さん(享年24)が、入院中に1週間ほどかけて編んだものだ。 和さんは青森県出身。2016年に将一さんと出会い、交際を始めた。和さんにステージIVの大腸がんが発覚したのは、互いに結婚を考え始めていた2018年の秋のことだった。 がんが見つかる前から「子供がほしい」という強い希望があった和さんは、何度も将一さんと話し合いを重ねた。そして、結婚して子供を持とうとふたりで決意した。 2019年12月に結婚し、2020年7月、27週で娘を出産。命がけのお産だった。和さんは、「娘に母である自分の姿を知ってほしい」という願いを込め、闘病と育児の日々を日記に綴っていた。 その日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』が反響を呼んでいる。「3年間、和は本当によく頑張ったと思います。娘が理解できる年頃になったら『あなたには、こんなにすごくて素敵なママがいたんだよ』と伝えたいです」(将一さん) 生まれたときこそ980gの超低出生体重児だったものの、元気いっぱいに育っている。 洗濯機を回し始めると、今度は絵本タイムが始まる。娘のお気に入りの『だるまさんが』や『おべんとうバス』は、和さんがしばしば読み聞かせていた作品だという。「本当に、子供は怪獣というか……すぐに飽きてしまうので、工夫が大変です。今日も、ついさっき朝ご飯を食べたばかりなのに、もうお腹空いたって大騒ぎで(笑い)」(将一さん) おやつ代わりは、朝に切り落とした食パンの耳だ。 元気だったら散歩を挟み、お昼ご飯。もし午前中に寝てしまったら散歩は午後に回す。 柔らかいマットを敷いた部屋の中では、もう歩き回ることができる。公園ではまだ遊具の上に座るだけだが外靴デビューの日も近いだろう。ただの赤ちゃんとは思えない 将一さんが出社する日は、和さんの妹である櫛引遥さん(23才)に助けてもらうこともある。「娘ちゃんは、やっぱりお姉ちゃんに似ていると思います。長いまつげも、時々“小悪魔”みたいな表情でニタッて笑うところもそっくり。 だから、ただの赤ちゃんとは思えなくて。グズっているのをなだめるときには、声に出して『お願い』って頼んでいます。半分は、この子の中にいるお姉ちゃんに言っているつもりです。そうしたら、ちゃんと言うことを聞いてくれるんです」(遥さん) 和さんの闘病を支えるために、櫛引家は家族そろって青森からの上京を決断した。 悲しみが癒えないなか、一家は現在も東京で暮らす。「和の父は、夜間の配送ドライバーの仕事を続けています。毎日夕方の6時半に家を出て、帰ってくるのは翌朝の10時頃。運転中に、ふっと和のことが脳裏をよぎると、涙が止まらなくなると言われたことがあって。もしも事故にでもあったらと思うと心配で……」(和さんの母・千春さん) 千春さん自身も、ふとした瞬間に娘を思い出すという。「悲しいのは、本当に突然ですね。看板にひらがなの『の』が書いてあるのを見ただけで取り乱してしまったこともありました」(千春さん) それでも立ち止まってはいられない。遥さんには大きな変化があった。今春、大学1年生になるのだ。「お姉ちゃんが“勉強は大切だよ。大学に行ってみたら?”って言っていたことを思い出して、通信制の大学に通うことに決めました。応用情報技術者の資格を持っているので、これから4年間しっかり勉強して、データサイエンティストの資格を取るつもりです。 3つ下の妹の結花は先月から医療事務の仕事を始めました。お姉ちゃんはいつも結花のことを心配していたから、安心しているんじゃないかな」(遥さん)パパはずっとママに会いたいと思っている「ちょうど今日、保育園の面談だったんです」 台所で、夕食の準備を始めた将一さんが言った。「和もぼくも人見知りなので、娘も溶け込むまでに時間がかかるかなと思ったら、ぜんぜん。みんなの中に笑顔で突入して、きゃっきゃ遊び始めたのでひと安心しました」 4月から、娘は近所の保育園に通うことが決まっている。延長保育の制度があり、朝7時半から夜9時まで開いているという。「出社する日が増えても、できるだけ自分で娘の面倒を見るつもりです」(将一さん) 今日の娘の夕食はハンバーグに卵焼き、トマト、軟らかいおじや。彼女のための食事は、1食分ずつラップで小分けにして冷凍してある。 将一さんのご飯は、コンビニ弁当。「自分の食事までつくる余裕はまだない」と話す。 食卓の上には、ウエディングドレス姿の和さんの写真が置かれている。「食事のときは、3人で一緒に食べている気持ちになって、心にグッときます。 それと、最近気づいたんですが、娘の寝姿が和とそっくりなんです。寝ている娘がそばにいると、思い出します。 でも、いまは和のことを考えすぎないようにしているんです。集中して考え始めるとつらいので……。彼女の遺した日記も、まだ全部は読めていないんです」(将一さん) 保育園に入り、同世代の子供たちと接するうちに、娘はある日「ママがいない」ことに気づくかもしれない。あるいは、友達から「どうしてママがいないのか」と聞かれることもあるだろう。“その日”のことを将一さんはどう考えているのか。「来年か、それとも再来年か。話せるようになって、もう少しいろいろわかるようになったら、ママの和がいないことは自分が娘に伝えないといけないと思っています。 まだはっきりとは決めていないですが……病名などの具体的な理由は、もっと後でいいかな。いまこの世界にママはいないこと、会えなくてもパパはずっとママに会いたいと思っていること、そして、ママはあなたのことを本当に大切に思って愛していたことを、まずはわかってもらえたらと思います」 将一さんは、娘とともに歩き始めている。※女性セブン2022年3月17日号 家中を飾り付けて祝った。「娘には3度お色直しをしました」(和さん) 写真15枚
2022.03.05 11:00
女性セブン
新井
名物書店員・新井見枝香さん「ステージIVのママ」から学んだ「闘病中の人との向き合い方」
 21才で大腸がんステージIVの宣告を受け、22才で結婚、23才で娘を出産。2021年9月、闘病の末に24才で亡くなった遠藤和(のどか)さんが1才の娘のために綴った日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』。書店員の新井見枝香さん(41才)が思い起こしたのは、知人の闘病の記憶だった。 * * * 夫の遠藤将一さん、若いのにすごく立派ですね。好きな女の子が苦しんでいる姿を見ているのはつらかったと思います。でも、彼は「絶対治るよ」と言い続けた。絶対泣いたらいけないと思って過ごしていた。よっぽど気持ちが強い人なのだと思いました。私は「絶対治るよ」と言う役割に徹することまではできても、さすがに涙を我慢することはできないと思います。 読んでいて、私自身の近しい人ががんの闘病をしていたときのことを思い出しました。当時、私は将一さんと同じくらいの年齢でしたが、恐怖に圧倒されていたことばかりを覚えています。抗がん剤治療の副作用で吐き気を催している姿や、日に日にやつれていく姿……「世の中にはこんなにもどうにもならないことがある」という現実が、本当に怖くて、恐ろしくて、逃げ腰だったように思います。 和さんの日記のおかげで、当時はわからなかった、がんと闘う人との向き合い方が少しわかったような気がします。 例えば、抗がん剤治療を「もうやめちゃいたい」「死んじゃいたい」と思ったり、「やっぱり頑張ろう」「娘ちゃんに会いたい」と思ったりする場面。私の知人も、会う日ごとに前向きだったり、ネガティブだったりしました。状況は変わっていないけれど、日によって、気の持ちようが猫の目のように変わっていた。でも、どちらかが噓なのではなく、どちらも本当の気持ちなんですよね。 考えてみたら、それってがんの患者さんに限ったことではなくて。体調が悪いと、なにもかも嫌に見えることって、誰にでもたしかにあります。私は少し頭が痛いだけで、気持ちが後ろ向きになり、いろんなことがどんどんダメになっていきますし。がんだから特別、というわけではなく、自分にもあることだと思えたら、接し方も少し変わっていたのかなと思いました。 何年も連絡を取っていなかった友達から唐突にLINEがきたことに対して「死ぬ前に会っておかなきゃとか思ったんでしょ」と感じたと、和さんは書き遺しています。ハッと考えさせられました。私も和さんと似ているタイプかもしれない。自分が弱っているとき、近づいてくる周囲からの哀れみの視線や、不自然な励ましって、その人にとっては心配でいてもたってもいられないのかもしれないけれど、”気持ち悪い”と感じてしまいます。私自身がそういう考え方だから、知人の体調が芳しくないことを耳にしたとしても、心の中では心配だけど、きっと連絡できないと思う。いままで全然音沙汰なかったのに、急に「元気?」って聞くのって変じゃないですか? あえてアクションを起こすことには躊躇してしまいます。 一方で、真逆のタイプの人もいますよね。別の知人は、「頑張ってと励ましてほしい」と言っていました。その人はすごく健気に闘っていて、「大丈夫」「今日は抗がん剤2日目!」とか、Instagramにアップするんですよ。私は最初「無理しないでほしい」と感じていたのですが、よくよく話を聞いてみると、その人にとっては「頑張って」という言葉をかけられたり、日々を投稿したりすることが心の支えになっているんですよね。「頑張って」という言葉は軽率に使ってはいけないと思い込んでいたので、目から鱗というか、想像力が足りなかったと感じました。『ママがもうこの世界にいなくても』は、和さんという1人の女性のケースだけれど「自分だったらどうするか」というスタンスを考えるうえで大きなヒントになると思います。がんの患者さんがリアルタイムで感じたことを、ここまで克明に、そして思ったままに本心で記している文章はめったにないのではないかと思いました。◆新井見枝香(あらい・みえか) 1980年東京都生まれ。書店員、エッセイスト、ストリッパー。書店員として文芸書の魅力を伝えるイベントや仕掛けを積極的に行い、中でも芥川・直木賞と同日に発表される一人選考の文学賞「新井賞」は読書家の注目の的となっている。20年からはストリップの踊り子として各地の舞台に立ち、三足のわらじを履く日々を送っている。著書に『本屋の新井』(講談社)、『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)など。 家中を飾り付けて祝った。「娘には3度お色直しをしました」(和さん) 写真13枚
2022.02.04 16:00
NEWSポストセブン
新井
名物書店員・新井見枝香さん「結婚と出産=幸せという考え」むしろ新鮮
 21才で大腸がんステージIVの宣告を受け、22才で結婚、23才で娘を出産。2021年9月、闘病の末に24才で亡くなった遠藤和(のどか)さんが1才の娘のために綴った日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』。「夢中になって読みました」と話す書店員の新井見枝香さん(41才)は「和さんの人生観が新鮮」と語る。 * * * 書店員という仕事柄、何冊もの闘病記に触れてきました。これまで闘病記を読んだときには「悲しいけれど、自分に何ができるわけでもないし……」とやりきれない気持ちになっていたけれど、『ママがもうこの世界にいなくても』は違いました。もちろんつらいシーンもあります。でも、つらい場面よりも、普通の女の人が、好きな人と結婚して、子供を産んで、家族みんなで仲良くて……という、幸せな場面の方が印象に残りました。こんなにがっつり仲の良い家族、珍しいんじゃないかな。 ジェンダー平等が叫ばれるこの時代、女性が「お母さんになりたい」と素直に言えないような風潮があるような気がします。単純に「子供が欲しい」と思う女性も減っていると思う。そんななかで、和さんは、きっぱり結婚と出産を決めていて素敵だと思いました。好きな人と出会って、子供を産んで、育てる。そういうことを何の疑いもなく「したい」「うれしい」「幸せ」と思えること自体が新鮮でした。「子供をもつ」ということに関して、頭で考えすぎたり、変な自己意識が邪魔をしたり、素直に考えることのできない人も多いと思うから。入院前には夫と娘のために必ず作り置きのご飯をつくるところとか、一昔前の“素敵な奥さん”みたいですよね。「ご飯は絶対につくる!」というタイプのお母さんっているいる! と思いました。和さんのお母さんもそんな感じだし、私の親もそうでした。具合が悪いなら出前で済ませればいいのに、「味噌汁だけはつくる!」とか言って(笑い)。私たちの母親世代ならまだしも、和さんは20代前半。かえって、”新しい”と感じたんです。「女性ばかりが料理をするのが当たり前ではない」、確かにそうです。でも、いままでそういう生き方をしてきて幸せだった人はいただろうし、いまでも、それが幸せだと信じている人もいる。「自分がやりたい、やってあげたい」という気持ちがある人たちの存在をなかったことにして「女性ばかりがやらされている」と主張するのは、ある意味では乱暴なのかもしれないのだと気づきました。世の中には、すべてを無理にひっくり返さないでいいこともあるのかもしれません。和さんの人生観は、そう立ち止まって考えさせられるものでした。 あくまで日記に書かれた、和さんの受け止め方ではありますが、夫の将一さんが和さんに「ちょっと、その言い方はないんじゃないの」と思うような言動をちょいちょいしていることからも、まだ若いカップル、夫婦にありそうなリアルが感じられました。一瞬引っかかるんですけど、いや、待てよ、そうだよな、と。彼だって、聖人君主でも、王子様でもなくて、普通の若い男性ですもんね。娘が夜泣きしても起きないくらいのほうが、自分を追い込みすぎないからいいのかもしれません。和さんはイラっとしていましたけど(笑い)、そういう場面が妙に生々しいんです。最後に人が亡くなってしまう闘病記は、それまでのすべてが美化される方向に傾いてしまいがちですが、この本はそうではなくて、人間の姿が真っ直ぐに描かれていると思いました。(2月4日午後4時配信の後編に続く)◆新井見枝香(あらい・みえか)1980年東京都生まれ。書店員、エッセイスト、ストリッパー。書店員として文芸書の魅力を伝えるイベントや仕掛けを積極的に行い、中でも芥川・直木賞と同日に発表される一人選考の文学賞「新井賞」は読書家の注目の的となっている。20年からはストリップの踊り子として各地の舞台に立ち、三足のわらじを履く日々を送っている。著書に『本屋の新井』(講談社)、『この世界は思ってたほどうまくいかないみたいだ』(秀和システム)など。 家中を飾り付けて祝った。「娘には3度お色直しをしました」(和さん) 写真14枚
2022.02.03 16:00
NEWSポストセブン
西医師
緩和ケア専門医「がん患者と家族のあり方」ステージIVママから学べること
 21才で大腸がんステージIVの宣告を受け、22才で結婚、23才で娘を出産。2021年9月、24才で亡くなった遠藤和(のどか)さんが1才の娘のために綴った日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』が話題を呼んでいる。川崎市立井田病院に勤める腫瘍内科医で緩和ケア専門家の西智弘さんは「和さんのご家族の総合力は見事だった」と語る。(前後編の後編。前編は【緩和ケア専門医「ステージIVのママの“余命感覚”に考えさせられた」】) * * *『ママがもうこの世界にいなくても』は稀に見る闘病記です。なぜなら、がん闘病が大きなテーマであるのに、医師がほとんど登場しません。これは珍しいことです。 医療者の存在感の希薄さは、そのまま、和さんが「自分の選択した人生を生きた」ことを如実に表しています。多くの闘病記では、医師の存在が大きく描かれ、医療者に治療内容から生活の指針、気持ちの持ちようまで導かれます。しかし、同書では、医師の助けはそこそこに、和さんは自分の選択を最優先に置いています。 それを可能にしたのは夫の将一さん、和さんの妹の遥さん、青森から東京に引っ越してまで夫婦を助けた和さんの実家の櫛引(くしびき)家といった家族の総合力ですが、もうひとつ、いわゆるステージIVのがん患者さんの多くが避けられない「役割の喪失」という危機を、夫婦の力で乗り越えたことも大きいと感じました。 腫瘍内科医、緩和ケア医として講演する際、私はしばしば「喪失体験ゲーム」をおこないます。別の医療者の方が使っているのを見て有効な手段だと感じ、自分なりにアレンジしたものです。 ルールは以下の通りです。 白紙のカードを聴講者ひとりにつき5枚配り、そこに「家族」、「友達」、「お金」、「生きがい」、「役割」と書いてもらいます。それから、私といっせいにじゃんけんをして、「負け」か「あいこ」の場合は、その5枚のカードの中からどれか1枚、「自分が失ってもかまわないと思うもの」を破り捨ててもらうのです。 このゲームをやると、多くの人が最初に「役割」のカードを捨てます。「家族」や「友達」のカードと比べ、その大切さを具体的にイメージしにくいからだと思うのですが、じつは「役割」のカードは、ほかのカードの「価値の有効性」までも支える、とても大切なものなのです。 たとえば、「家族」。人は誰でも、父親や母親、あるいは彼らの子供、兄弟であるという「役割」によってこそ、家族に帰属している実感を持つことができます。それは「友達」でも同じですね。自分が「友達」の中にいるとき、そこではお調子者なのか、リーダー的な立場なのか、世話焼きなのか、ともかく自分の「役割」があるはずです。 がんの進行が進んだとき、少なからぬ患者さんが体力の低下や入院などによって「自分の役割」を失ってしまうことに、ショックを受けます。しかし、和さんの場合は、むしろがん患者になってから、「妻」という役割、「母親」という役割を自覚的に獲得したように読めました。 大腸がんが発覚してから妊娠、出産を選んだ和さんと将一さんに対して、一部から心ない言葉が飛び交ったことには憤りを感じます。「子供がかわいそう」。とんでもない言いぐさですね。母親がいないことについて語り得るのは、ほかでもない和さんのお子さんだけです。当事者である娘さん以外には、誰も何も言う権利はありません。 先ほどご家族の総合力について言及しましたが、和さんが終末期を在宅で過ごすことができたのは、夫の将一さんだけでなく、妹の遥さんをはじめご実家が割いた多大な時間と労力に負うところが大きい。和さんの日記の後に続く遥さんの記録を見れば、ご家族が払った時間的、肉体的、金銭的コストがどれだけのものだったのか、肌で感じてもらえるはずです。 和さんはご家族の支えがあったとはいえ、AYA世代(15歳~39歳)のがん患者さんが在宅療養する際に、介護保険が使えないのは、喫緊の課題です。40歳以上であれば訪問介護サービス、訪問入浴サービス、介護用ベッドの貸与など、在宅療養に不可欠なサービスが最大でも3割の自己負担で利用できるのに、AYA世代には適用されない。 もちろん、介護保険の支払いが始まるのが40歳からだからという財政上の理屈はわかります。それでも「健康で文化的な最低限度の生活」を保障する憲法があり、もし介護保険を適用としたとしても、そのサービスを利用するのはさほど多くない人数だけなのですから、大変な局面にぶつかっている方々への支援を、単純に年齢だけで区切るのはあまりに酷ではないでしょうか。AYA世代への介護保険の適用については、社会全体の問題として議論を開始すべきです。現状では、地方自治体ごとに独自の助成制度が設けられているだけなので、地域格差が目立ちます。 本書は、もし身近にがん患者さんがいた場合に周囲の者がどのように振舞うべきかという示唆も与えてくれます。象徴的なのが、《何年も連絡をとっていなかった友達から、突然、LINE。ものすごく腹が立ってしまった。急に連絡してきて「会いたいから会って」は自分勝手すぎじゃない? 私が会いたいと思っているかどうかは二の次。死ぬ前に会っておきたい、とか思ったんでしょ》という部分です。 和さんが知人に怒りを覚えたのは、《私が会いたいと思っているかどうかは二の次》だったからでしょう。がん患者さんに対するときに、周囲の者が自覚しておかねばならないのは、ほとんどこの一点に尽きます。よかれと思って「私が何かをしてあげる」ではなく、「あなたが求めたこと」だけをする。主語を間違ってはいけません。「(がんで)苦しい」と言われたとき、自分の気持ちを満足させたい人は「がんに効く(と称する)何か」を持ってきて、患者さんにプレゼントするかもしれません。けれど、患者さんは「苦しい」と言っているだけで、「苦しいから、何とかしてくれ」とは頼んでいない。ただ「苦しい」という話を聞いてもらいたいだけかもしれません。かといって腫れ物に触るように離れていって、本人を孤独にすべきでもない。見守る、そして声をかけられる距離にいる。求められたら、それを成すのもよいでしょう。「いま、誰のためにやっていることなのか」を常に考え続けることが大切です。【プロフィール】西智弘(にし・ともひろ)/2005年北海道大学卒。日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医。室蘭日鋼記念病院で家庭医療を中心に初期研修後、2007年から川崎市立井田病院で総合内科/緩和ケアを研修。その後2009年から栃木県立がんセンターにて腫瘍内科を研修。2012年から現職。現在は抗がん剤治療を中心に、緩和ケアチームや在宅診療にも関わる。また一方で、一般社団法人プラスケアを2017年に立ち上げ代表理事に就任。「暮らしの保健室」の運営を中心に、地域での活動に取り組む。著書に『緩和ケアの壁にぶつかったら読む本』(中外医学社)、『「残された時間」を告げるとき』(青海社)がある。
2022.01.23 16:00
NEWSポストセブン
西医師
緩和ケア専門医「ステージIVのママの”余命感覚”に考えさせられた」
 21才で大腸がんステージIVの宣告を受け、22才で結婚、23才で娘を出産。2021年9月、24才で亡くなった遠藤和(のどか)さんが1才の娘のために綴った日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』は、がん闘病を克明に記録されたものとして、同じように病気を抱える人や、その家族からも注目されている。川崎市立井田病院に勤める腫瘍内科医で緩和ケア専門家の西智弘さんは、余命について考えさせられたと唸る。 * * * 私は腫瘍内科医、緩和ケアの専門家として、何百人もの患者さんの生と死を見てきました。率直に言って、『ママがもうこの世界にいなくても』は、これまでに例のない闘病記だと思います。 驚かされたのは、遠藤和さんと夫の将一さんの「余命」に対する斬新な感覚です。がん患者さんとそのご家族に余命を告げるとき、私は必ず以下のように選択肢について話をします。「あなたのがんを治すことはできません。抗がん剤治療をおこなうことはできますが、その主な目的は根治ではなくがんのコントロール、がんとの共存です。つまり、少しでも余命を延ばす。最期を迎えるまでの『時間の長さ』を優先するか、あるいは『時間の質』を優先するか。残された時間に、あなたがどんな意味を求めるのかを考えてほしいのです。 仮に、抗がん剤でいくらか生活の質が落ちるとしても、生きている時間が延びることが大切なら、私は抗がん剤治療を勧めます。でも、時間の長さではなく、質を大切したいと考えるなら、抗がん剤治療をおこなわない選択肢もあります。どちらかが間違っているということはありません」 私に限らず、医療者が「治せないがん患者さん」に対するときには、余命を「死から逆算した残りの時間」という枠組みで考えます。その枠組みを前提として、残り時間の「長さ」を優先するか「質」を優先するか、患者さんと相談し、寄り添って伴走していくわけです。 しかし、和さんと将一さんは、余命を宣告されてもなお、最後まで「死から逆算した残りの時間」という考えを持ちませんでした。本当に「いまだけがあり、いまを積み重ねて生きる」、「絶対に治す」と信じ続けた。だから、2人にとって「死」は、予定されたものではなかったのでしょう。もちろん生を疑いたくなる瞬間もあったとは思いますが、それでも、これほどまで純粋に「今日一日」を積み重ねようとした心の持ちようには驚かされました。 余命を受け入れるスタンスで生きていたわけではなかったからでしょう。2021年5月26日の日記を読むと、和さんは主治医から「もう、できる治療はありません」、「(自由診療に時間とお金を使うなら、代わりに)いいホテルでディナーとか、そういうのはどうですか」と、緩和ケアの提案を受けた際に「ずいぶん冷たい言い方に聞こえた」と反発しています。 患者さんの立場から見れば、その気持ちもよくわかります。実際に、主治医の先生がどのような意図やニュアンスで言われたのかはわかりませんが、確かにそのように聞こえたのでしょう。けれど同時に、医師の言葉が冷たいように感じられるのは、その医師の内面が冷酷だから、というわけではないことはお話ししておきたいです。私たち医療者の果たすべき務めは、「がんという病を抱えて、どう生きていくのか」について、患者さんを導くことではありません。患者さんが、自らの意思で「自分の人生を選択すること」を支えるのが医療者の務めです。 家族で過ごした幸せな時間 写真4枚  私が以前に担当した女性の例を挙げましょう。彼女は、夫に見せる感情と、医師である私に見せる感情がまるで違っていました。ある日、その患者さんから「死にたい」と言われたので、私はできるだけ淡々と「お迎えは来そうですか」と返しました。また別の日、彼女が夫婦で来院したとき、夫から「妻は最近、生きる気力が湧いてきたようです。調子も良くて」と報告されても、私は軽く頷いただけで、大きなリアクションを取らないように努めました。 私の取った態度は、一般的には冷たく受け取られると思います。それでも、こういった場合に大きなリアクションを取らないのは、医療者が感情を露わにする行為が、患者さんの言葉をコントロールしてしまう可能性があるからです。「死にたい」というフレーズにいかにも悲しそうに対応したり、逆に「生きたい」という言葉にうれしそうに応じたりすると、患者さんは自分の率直な気持ちではなく、医療者の態度に沿った言葉を口にするようになってしまうかもしれない。そういった影響を与えることを避けるため、がん患者さんに対する医療者は、できるだけ感情に訴えないように振る舞うことも多いのです。 緩和ケアは決して、終末期のみの医療ではありません。国は、がんと診断されたところから緩和ケアが始まるべきだと以前から掲げていますし、がん告知の瞬間から緩和ケアを開始した方が生活の質が高まることは、世界的な研究結果でも示されています。 医師が勧める治療を選択しても、そのゴールが、医師と患者さんで一致していないということは山のようにあります。医師は延命のために治療していて、患者さんは治癒を期待して治療に取り組んでいるということも、しばしばです。なかには、そのギャップを見て「患者さんの理解が悪い」などと口にする医療者までいます。あるいは、緩和ケアを受けるときには、すべての積極的治療をあきらめなければならないと考える医療者もいます。 しかし私は、治癒を期待し続けるとか、治療を求め続ける生き方も肯定されるべきだと考えています。緩和ケアは、抗がん剤に代表される積極的治療を否定するものではありません。抗がん剤治療と並行して受けられます。だから、自由診療を受けてみなければ悔いが残ると考えるかたがそれを実行する際にも、緩和ケア医、緩和ケアチームとの縁は切らないでほしいです。 和さんは、自身の確固たる意思とご家族の協力のもと闘病を終えました。彼女は最後の最後まで、しっかりと自分の人生を選択して生きたのではないかと私は感じました。(前後編の前編。1月23日16時配信の後編【緩和ケア専門医「がん患者と家族のあり方」ステージIVママから学べること】に続く)【プロフィール】西智弘(にし・ともひろ)/2005年北海道大学卒。日本臨床腫瘍学会がん薬物療法専門医。室蘭日鋼記念病院で家庭医療を中心に初期研修後、2007年から川崎市立井田病院で総合内科/緩和ケアを研修。その後2009年から栃木県立がんセンターにて腫瘍内科を研修。2012年から現職。現在は抗がん剤治療を中心に、緩和ケアチームや在宅診療にも関わる。また一方で、一般社団法人プラスケアを2017年に立ち上げ代表理事に就任。「暮らしの保健室」の運営を中心に、地域での活動に取り組む。著書に『緩和ケアの壁にぶつかったら読む本』(中外医学社)、『「残された時間」を告げるとき』(青海社)がある。
2022.01.22 16:00
NEWSポストセブン
眞鍋かをり
眞鍋かをりが語る日記を書くことの意味 ステージⅣのママの闘病記を読んで
 かつて「ブログの女王」と呼ばれて注目を浴びたタレントの眞鍋かをりさんが、日記のもつ意味について語った。眞鍋さんが感銘を受けたのが『ママがもうこの世界にいなくても』という本。21才で大腸がんステージⅣの宣告を受け2021年9月、約3年間の闘病の末、亡くなった遠藤和(のどか)さん(享年24)が1才の娘のために綴った日記をまとめたものだ。眞鍋さんはどう読んだのか――。 * * * コロナ禍で、20年ぶりに日記に挑戦してみました。でも、すぐには書けなかった。ブログとは全然違いますね。ブログは他人に読まれる前提で書いているので、面白くするための演出も入るし、自分の心の内をさらけ出す場所ではなかった。だから、それほど逡巡することなく書けたのかもしれません。でも、誰にも見せない日記では、自然と、私の本当の気持ちと向き合うことになる。日記を書くことで楽になるという人もいますが、私の場合は、不安や嫌な出来事からは目を逸らしたいという思いが強く、日記にすら本心を隠して強がってしまうところがありました。自分の心を直視するのは、こんなにも勇気が要ることなのだと思い知らされました。 和さんは、どのような思いで日記を書いていたのでしょうか。本当のところはご本人にしかわからないことですが、読んでいて少し気になったのが「余命は統計。私は大丈夫。」といった、前向きな言葉の数々です。彼女の日記は、あっけからんとしている部分もありますが、つらいからこそ、わざと前向きに綴ることで自分を鼓舞していたのかもしれない。私も昔、日記に「こんなことがあったけれど、大丈夫」という書き方をしたことがあります。本当は大丈夫じゃなかったかもしれない。だけど、そうすることで不思議と大丈夫だと思えて、精神的に自分を保つことができた。前向きに書いたことが良い形で現実になったことも何度かあります。言霊(ことだま)って、本当にあるのかもしれないな、と感じています。  自分がもし和さんと同じような状況に置かれたら、やはり私も娘に遺すために日記を書くだろうと思います。ひとりの女性として伝えてあげられることは伝えておいてあげたい。母が何を考え、どんなことをしていたのかが記された日記は、娘にとって最高の道しるべになると思います。今も、何か娘に何か教えるときは「◯◯しなさい!」と頭ごなしに言うのではなく、自分が子供の頃の話や失敗談などを話して聞かせるようにしています。そうすると、スッと腑に落ちたような感じで、納得してくれるんですよね。「ママはこうやって遊んでて大怪我したんだよ、だから気をつけてね」とか「好きな男の子には笑顔で話しかけないと気づいてもらえないよ」とか(笑)。効果は抜群ですが、子供の頃の記憶は消えていってしまうものだし、私の記憶も歳のせいかどんどん薄くなっていってる気がするので、いまのうちに日記という形で残しておいたほうがいいかもしれません。 もうひとつ、和さんの日記は、「まだまだ夫に愛されたい若い女の子」と「娘を思う母」という2つの側面があって新鮮でした。旦那さんが飲みに行ってしまって連絡がつかなかったことを怒るんだけど、喧嘩のあとにはちゃんと仲直りして「大好き」になったり。 家族でありながら、まだ恋人同士のような描写も多くて、彼女の中に「ピュアな乙女」と「強い母」が同居しているのを微笑ましく読ませていただきました。もしかしたら、これこそが、闘病記でありながら、読後に重い気持ちにならなかった理由なのかもしれません。和さんという、等身大のひとりの女の子を通して、短いけれども確かに幸せだった人生があったのだと、どこか温かい気持ちになるのです。◆眞鍋かをり(まなべ・かをり)1980年5月31日生まれ。愛媛県西条市出身。大学在学中から芸能活動を始め、ブログ執筆が話題となり「元祖・ブログの女王」と呼ばれる。現在はタレント活動と子育ての充実した毎日を送る。撮影/小倉雄一郎 家中を飾り付けて祝った。「娘には3度お色直しをしました」(和さん) 写真14枚
2022.01.17 16:00
NEWSポストセブン
眞鍋かをり
ステージIVのママの闘病記を読んだ眞鍋かをり「しあわせの基準は人それぞれ」
 21才で大腸がんステージIVの宣告を受け、22才で結婚、23才で娘を出産。2021年9月、闘病の末に24才で亡くなった遠藤和(のどか)さんが1才の娘のために綴った闘病中の日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』が話題を呼んでいる。タレントの眞鍋かをりさんは「『しあわせ』とは何なのか考えさせられた」と話す。 * * * 読後は、不思議な感覚に包まれました。読む前は「重くて感動的な闘病記」を想像していたのですが、そうではなかった。 なんでだろう……。和さんの人柄が、逆境にあっても、驚くほどに明るくて前向きであること。そして、日記形式で、闘病が等身大で淡々と書かれていることが、本の読後感に強く影響しているように感じています。 「しあわせの基準は人それぞれ」という、当たり前だけれど、実は私も含めて多くの人が普段の生活のなかで忘れがちなことを、和さんは教えてくれました。和さんは、ステージIVの大腸がんとわかってもなお、「出産して母になる」という決断をしました。そのことについて、いろいろな意見をもつ人がいたようです。子供を産むことは、体に負担をかけないわけはありませんし、闘病に影響があるかもしれません。また、和さんが亡くなったら、娘さんは母親のいない子になり、お父さんはシングルで子供を育てることになります。 考えるだけでも、くじけそうになるぐらい大変なことです。彼女と同じ立場だったら、私は産まないかもしれません。でも、和さんの思いや決断を読ませてもらい、それが「当たり前の感覚」ではないことが胸にささりました。人はそれぞれおかれた状況も違えば、しあわせの基準も違う。私のものさしで和さんとご家族のしあわせを測ってはいけないと感じました。彼女たちにとっては、それがしあわせだったのであり、そう信じたからこそ、奇跡のような出産が起こりえたし、家族3人の日々も実現できたのです。「子供がかわいそう」と言う人もいるようです。私もひとりの親として、そういう考えを理解できる部分もあります。だけど、少なくともいま、和さんを失ってものすごくつらいなかで、娘さんの存在は、遺された家族にとってもしあわせの源になっているのではないでしょうか。最近、よく「炎上」という言葉が話題に上がりがちです。批判的な意見をSNSやコメント欄に書き込む人が増えたからだと思うのですが、そういう人たちは”自分のものさし”が正しいのだと、微塵も疑うことなく否定や批判をしてしまっていないでしょうか。私たちにはそれぞれ、他人には推し量ることのできない事情や、その人にしかわからないしあわせの基準があります。和さんは命をかけて、「自分のしあわせ」と「遺される人たちのしあわせ」を、全力で信じたのだと思います。 私も和さんと同じく、娘をもつ母親です。母親になる前は「あの時こうしていれば良かった、ああしておけばよかった」と後悔することも多かったのですが、娘が産まれて、自分の生き方を全肯定できるようになりました。あの時、ひとつでも別の選択をしていたらこの子は産まれていなかったかもしれない、そう考えたら、人生の選択はすべて正解だったと思えたんです。そのくらい子供という存在は大きい。和さんもきっと、娘さんを授かって、自分の選択は正しかったんだと確信できたんじゃないかな。 和さんが「家庭を築きたい」と自然と思われたのは、もちろん育った環境の影響もあると思いますが、ご本人に強い母性があったのではないかと感じました。私は和さんと同じくらいの年齢のとき、なによりも自分が楽しく過ごすことを考えていたから、子供を産むなんて想像もしていなかった。「とにかく長生きしたい」と思っていました。まったく自分のことだけですね。他人のことをそこまで気にしていなかったので、彼女の《死ぬことはそんなに怖くないけれど、私が死ぬことで誰かを悲しませるのが嫌だ》という言葉はとても印象に残りました。20代前半の私は、そんなこと絶対に言えなかった。 ただ、娘が産まれて変わりました。いまもできれば長生きをしたいとは思いますが、自分の命が失われることへの恐怖は薄れて、代わりに娘の人生の方が圧倒的に大切になった。とにかく娘には健やかに育ってほしい。私は娘のために生きたい。「自分が命を落としても、娘の命を助けてほしい」という和さんの気持ちは、親として自然なことだったのだろうと思います。(17日午後4時配信の後編に続く)◆眞鍋かをり(まなべ・かをり)1980年5月31日生まれ。愛媛県西条市出身。大学在学中から芸能活動を始め、ブログ執筆が話題となり「元祖・ブログの女王」と呼ばれる。現在はタレント活動と子育ての充実した毎日を送る。撮影/小倉雄一郎 家中を飾り付けて祝った。「娘には3度お色直しをしました」(和さん) 写真14枚
2022.01.16 16:00
NEWSポストセブン
2021年7月に娘が1歳になった
日本対がん協会会長がステージⅣのママの笑顔に感嘆「ただごとではない」
 2021年9月に大腸がんのため24才で亡くなった遠藤和(のどか)さんが1才の娘のために綴った日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』が大きな反響を呼んでいる。がんで妻を亡くした経験があるがん専門医で、現在は日本対がん協会会長を務める垣添忠生さんに話を聞いた。 遠藤和さんは青森県出身。21才で大腸がんのステージⅣであると宣告を受けた。22才で、かねてから交際していた将一さんと結婚式を挙げた。その様子が『1億人の大質問!? 笑ってコラえて!』(日本テレビ系)の「結婚式の旅」コーナーに取り上げられ、全国の多くの人の感動を集めた。その後、まもなく妊娠して23才で娘を出産。和さんは、未来の娘に自分の姿を伝えるため、日記を書き続けていた。 2021年5月下旬、和さんは担当医から、余命が数週間単位だという宣告を受けた。緩和ケア病棟に移ることも提案されたが、「治すための治療がしたい」と積極治療を望んでいた和さんは、訪問看護ステーションを見つけ、自宅に戻ることを決意した。和さんは前を向いていた。退院から5日目の日記には、こう綴られている。《5月31日(月) 朝、娘にミルクをあげて、洗濯をして、掃除機もかけた。昼、テレワークで家にいた遠藤さんのために、ペペロンチーノに生卵を落としたパスタを作った。ぺぺ玉。ずっと、こういうことがしたかった。家族と同じ空間で過ごす。家事をする。娘をあやして、抱きしめる。些細なことだけど、ものすごく尊く感じる。いまの私は、腸が腫瘍で押しつぶされてしまったので、固形物は食べられない。24時間、点滴で栄養をとっている。痛みを抑えるために、麻薬を入れ続けているから、ぼんやりすることも多い。それでも、ただ生きてるだけでこんなに幸せ。一生点滴でも、車椅子でも、絶食でもいい。ずっと、家族と一緒にいたい。24年間でいまが一番しんどいけれど、一番幸せ。》(『ママがもうこの世界にいなくても』 より) 日本対がん協会会長の垣添忠生さんは同書について、「本の表紙にある、和さんの笑顔が素晴らしいと思います」と話す。「よく見ると腎ろうのチューブが繋がっていますから、闘病はすでに、ものすごくつらい段階にあったのだということが推察できます。これほど深刻な状況で、これだけの自然な笑顔が出るというのは、ただごとではないと思いますよ」(垣添さん、以下同) 1941年生まれの垣添さんは、東大医学部を卒業後、都立豊島病院などを経て1975年から国立がんセンター(現・国立がん研究センター)病院で泌尿器科医となった。2002〜2007年には同センター総長を務め、2003年には上皇陛下(当時は天皇陛下)の前立腺がん手術に携わる大任を果たす。 その一方、自身も大腸と腎臓と二度のがんを経験したがんサバイバーであり、2007年に妻の昭子さんを肺の小細胞がんで亡くした経験がある。のちに出版された、妻の死に向き合う日々を克明に記した『妻を看取る日―国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録―』(新潮社刊)は大きな反響を呼んだ。 昭子さんも、最期は自宅で過ごしたそうだ。 「残された時間が少ないことは、本人もよくわかっていたようです。亡くなる年、妻は『今年の年末年始はどうしても家に帰りたい』と強く言うようになりました。病院というのは、いろいろなルールがありますから、自宅とは全然違いますよね。私たちにとって自宅は、夫婦水入らずで過ごすことのできる特別な空間でした」 垣添さんは在宅用の医療機器や医薬品を準備し、12月28日に昭子さんを自宅に連れ帰った。「起き上がるのもつらいはずなのに、妻は自宅のこたつに入ってくつろいだり、洋服の整理をしたりしていました。薬の副作用でひどく口と食道がただれていましたが、私が作ったあら鍋を『おいしい』とおかわりしていました。『家っていうのは、やっぱりこうでなくっちゃ』とうれしそうに話す姿を見て、連れて帰ってきてよかったとあらためて思いました」 住み慣れた家で過ごした昭子さんは、垣添さんに見守られながら、退院4日目の大みそかに息を引き取った。「不思議なことに、ずっと意識がなかった妻が心肺停止の直前に体を起こして、私の目を見て、手をぎゅっと握ってくれました。『ありがとう』と伝えたかったのだとわかりました。最期にそうやって心を通い合わせることができたのも、自宅で過ごせたからだったのではないかと思っています」 垣添さんは「彼女が本当に満足して自宅で亡くなったのを見て、私も死ぬときは同じようにしたいと思うようになり、その準備を着々と進めているところです」とも話してくれた。 それから3か月、垣添さんは「死ねないから生きている」状態だったという。(26日午後4時配信の後編に続く)◆垣添忠生(かきぞえ・ただお)1941年大阪府生まれ。東京大学医学部卒業。同大学医学部泌尿器科文部教官助手をつとめながら、がんの基礎研究に携わる。1975年、国立がんセンター勤務。病院手術部長、病院長、中央病院長などを経て、2002年、国立がんセンター総長、2007年、同センター名誉総長となる。日本対がん協会会長。 家中を飾り付けて祝った。「娘には3度お色直しをしました」(和さん) 写真15枚
2021.12.25 16:00
NEWSポストセブン
闘病中は応援のメッセージを励みにしていた(2021年6月)
ステージIVのママが遺した本に反響 多くの人の心を打った「家族愛」
 21才で大腸がんステージIV宣告、22才で結婚、23才で出産。「母である自分の姿を娘に知ってほしい」と、遠藤和さんは綴った日記を本にまとめていた。彼女の遺したまっすぐな言葉が、いま多くの読者の心を捉えている。 2021年9月8日、約3年間の大腸がん闘病の末、亡くなった遠藤和(のどか)さん(享年24)。彼女が1才の娘のために綴った日記をまとめた『ママがもうこの世界にいなくても』が12月1日に上梓された(以下、《 》内は同書の引用)。 それからわずか2週間ながら、大きな反響が編集部に寄せられている。 和さんは、1997年青森県生まれ。2018年、21才で大腸がんステージIVの宣告を受けた。2019年末、22才でかねて交際を続けていた遠藤将一さん(30才)と結婚。2020年2月に、その結婚式の様子が『1億人の大質問!? 笑ってコラえて!』(日本テレビ系)の「結婚式の旅」コーナーで特集され、注目を集めた。《2020年2月5日(水)笑コラで、結婚式がオンエアされた。バイト先の食堂に20人くらいで集まって見たけど、テレビの反響すごい。 知り合いから、LINEが止まらない。 インスタには、ものすごい数のコメント。フォロワーもどんどん増えて、DMもめっちゃくる。ゲストで出てたさっしーも、いいねくれた。すごすぎ。感動。 応援してくれる方ばかりで、幸せものだ。 たくさんの人の目にふれて、がんの治療法の情報が入ってくるといいな。同じように病気で苦しんでいる人のためにシェアしたい。》「優しいお母さんになりたい」と幼い頃から願ってきた和さん。2020年1月に新しい命を授かった。ただし、出産までの道のりは険しかった。妊娠18週で、卵巣へのがん転移が判明。7月9日、27週で帝王切開での出産に臨んだ。幸い母子ともに無事。娘はわずか980gで、すぐにNICU(新生児集中治療室)に運ばれた。 出産から2か月後、和さんは卵巣摘出手術を行った。娘は順調に成長し、2020年10月に退院。和さんは抗がん剤治療を続けながら、育児に励んだ。2021年5月末、「余命は数週間単位」と告げられても、闘病を諦めず、家族とともに前を向いていた。《2021年5月31日(月) 朝、娘にミルクをあげて、洗濯をして、掃除機もかけた。  昼、テレワークで家にいた遠藤さんのために、ペペロンチーノに生卵を落としたパスタを作った。ぺぺ玉。ずっと、こういうことがしたかった。 家族と同じ空間で過ごす。家事をする。娘をあやして、抱きしめる。 些細なことだけど、ものすごく尊く感じる。 いまの私は、腸が腫瘍で押しつぶされてしまったので、固形物は食べられない。24時間、点滴で栄養をとっている。痛みを抑えるために、麻薬を入れ続けているから、ぼんやりすることも多い。それでも、ただ生きてるだけでこんなに幸せ。 一生点滴でも、車椅子でも、絶食でもいい。ずっと、家族と一緒にいたい。24年間でいまが一番しんどいけれど、一番幸せ。》人を愛するとは何か、家族とは何か 和さんの結婚式が特集された放送回にゲスト出演した指原莉乃(29才)は、同書に「愛する人を守るために生きる。和さんとご家族の優しさと強さが大切なことを教えてくれます」との感想を寄せた。 同じように、「和さんの生き方に感銘を受けた」「家族とは何か、考えさせられた」と感じた読者は少なくないようだ。「『笑ってコラえて!』を見てからインスタグラムでずっと和さんを応援していました。和さんの生き方、家族を想う姿がとっても素敵で大好きです! 同じ母として、尊敬しますし、自分もいまある日常を大切にしないといけないなと改めて思いました。ありがとうございました」(20代女性)「若くしてがんと宣告され、その中で結婚、妊娠、出産という経験をされたかたがどのような思いで生きたのか、そして、それを支えたご主人の思い。人を愛するとは何か、家族とは何か、遠藤さんたちが考える大切なことを知りたくてこの本を手に取りました」(20代男性)「同世代のかたの闘病中の生き方や考え方を読んで、愛する人のために生きることや、家族の優しさや支えが当たり前じゃないことを再認識させられた本でした」(20代女性)「涙なしでは読めませんでした。家族の優しさ、強さが大切だと感じさせてくれました。素敵な本です。娘ちゃんに残すとおっしゃっていた通り、大きくなった娘ちゃんにとって、大切なものになると思います」(20代女性) 自らの闘病と、前向きに闘病生活を送る和さんの姿を重ねた読者も少なくない。「和さんのことは、テレビ番組で知りました。私もがん患者です。私の娘たちのように若い和さんの、病気に負けない強い生き方に力をいただいていました」(60代女性)「テレビで見て和さんを知りました。ずっと応援してきた大好きなかたの本なので購入しました。手に取ったときから感動。パラパラと見てみるつもりが一気に読んでしまいました。終始泣きっぱなし。私の場合は膵臓ですが、お腹の痛みに苦しんだところは共通点も多く、引き込まれました。また、私は再度手術をしなければならず、またお腹を切る怖さに躊躇していましたが、和さんの強さと頑張りを見て、前向きに考えてみようと思えました」(40代女性) 厚生労働省によれば、がんは1981年から日本人の死因の第1位で、現在は年間36万人以上が命を奪われている。2人に1人が経験し、3人に1人が命を落とすがんは、国民病といわれて久しい。 自分がもしがんになったら、子供にどう向き合うのか—母としての視点を重ねた読者もいる。「妊娠が確定した日に、近くの本屋に立ち寄って購入しました。テレビやインスタで知ってから、ずっと応援してきたかたで、病気の中で出産されたかたで。タイトルに惹かれました。自分もこれから親になろうとしている中で、子供に何を残してあげられるんだろう、もし和さんと同じ境遇だったらどう思うだろう、と考えさせられました」(20代女性)「私にも2020年10月生まれの子供がいます。同じ母親1年目として興味を持ちました。子供を残してこの世を去るというつらさは計り知れません。自分がもしがんに侵されていて、息子と一緒にいられる時間が少ないと知ったら、子育ての仕方や、周りの人とのかかわり方はいまと違ったのか。私は、本書の和さんのようにたくましく、最後まで自分らしく生きていくことができるのかと考えさせられました。どうか遠藤家の皆さま、周りのかたが幸せに暮らせますように」(30代女性) 和さんは、亡くなる10日前まで日記を綴り続けていた。娘のために彼女が遺した言葉は、多くの人の心を打っている。※女性セブン2022年1月6・13日号 家中を飾り付けて祝った。「娘には3度お色直しをしました」(和さん) 写真16枚
2021.12.20 07:00
女性セブン
【動画】遠藤和さんの著書『ママがもうこの世界にいなくても』
【動画】遠藤和さんの著書『ママがもうこの世界にいなくても』
1歳の娘と、夫に遺した「愛」の記録。【↑ 上の写真クリックで動画へ】 
2021.11.30 16:00
NEWSポストセブン
2021年7月に娘が1歳になった
がんステージIVのママが娘に遺した日記「一番しんどいけれど一番幸せ」
 約3年間の大腸がんとの闘病の末、この9月に24才でこの世を去った遠藤和(のどか)さん。彼女は亡くなる直前まで、未来の娘に伝えるために、日々の思いを綴り続け、本にまとめる作業をしていた──。《彼女がもう少し大きくなって何かに迷ったとき、私の人生の選択が少しでも参考になったら、うれしいなと思う。》 遠藤和さんが息を引き取ったのは、今年9月8日のことだった。24才だった。 和さんは亡くなる直前まで、娘のために日記を書き続けていた。 1997年、青森県に生まれた和さんは、21才のときに大腸がんが発覚し、ステージIVと宣告された。 22才で、かねてから交際していた遠藤将一さん(30才)と結婚。昨年7月、23才で娘を出産した。「和は治療を頑張りながら、ぼくたちの結婚記念日の12月21日を目標に、書きためた日記を、娘のために本にまとめる作業を続けてきました」(将一さん) 和さんの著書『ママがもうこの世界にいなくても』は、12月1日に上梓される。そのなかから、和さんの足跡がわかる一部を紹介する(《 》内はすべて同書からの引用)。《2020年2月5日(水) 笑コラで、結婚式がオンエアされた。 バイト先の食堂に20人くらいで集まって見たけど、テレビの反響すごい。 知り合いから、LINEが止まらない。 インスタには、ものすごい数のコメント。フォロワーもどんどん増えて、DMもめっちゃくる。ゲストで出てたさっしーも、いいねくれた。すごすぎ。感動。応援してくれる方ばかりで、幸せものだ。 たくさんの人の目にふれて、がんの治療法の情報が入ってくるといいな。同じように病気で苦しんでいる人のためにシェアしたい。》 和さんは2019年12月、将一さんと結婚式を挙げた。その様子が、2020年2月、『1億人の大質問!? 笑ってコラえて!』(日本テレビ系)の「結婚式の旅」というコーナーで放映され、話題を呼んだ。「『和さんの日記をまとめて本にしないか』という提案を受けたのは、この頃でした。妊娠がわかったばかりで、出産のことだけを考えたくて、そのときは一旦話を保留にしたんです」(将一さん) ステージIVのがんを患いながらの妊娠生活には大きな困難もあった。妊娠18週目、卵巣へのがん転移が発覚。和さんは生前、当時をこう振り返っていた。「がんの私が子供を望んだらいけなかったのかも、と何度も思い悩みました。唯一のやすらぎは、赤ちゃん用品を選ぶとき。そのときでさえ“今後は買い物にも行けなくなるかも”“子供がこのサイズの服を着る頃、私は生きてるのかな”など悪いことばかり頭をよぎりました。もちろんどちらも無事でいたかったけれど、正直、私は死んでもいいから赤ちゃんを助けてあげたい、守りたいと思いました」 2020年7月9日、27週だった。和さんは、帝王切開で出産に臨んだ。幸い、母子ともに無事だった。その2か月後、和さんの卵巣から摘出された腫瘍は、娘の体重の3倍の重さだった。 娘という存在ができてから、和さんは、日記を本にまとめることを考え始めたという。「和がどんな人間で、何を考えて出産に臨み、どうやって病気と向き合い、どれだけ娘を愛したのか。そういうことを、娘のために形に残せたらいいねという話をふたりでしました。最終的に、和を中心に書き進め、ぼくが窓口役になって、娘のために本をつくることを決めました」(将一さん)《2021年1月14日(木) 一番仲良かったがん友が、3日前に亡くなった。彼女のお母さんが知らせてくれた。 私より少し年上で、スキルス胃がんのステージIVだった。 7月に娘を産んだあと、本当に苦しくて死にかけていたとき、すごく助けてもらった子だった。自分もしんどいのに、私のことを励ましてくれた。「大丈夫、負けないで。一緒に頑張ろう」そう言ってくれた。彼女の言葉のおかげで、いま生きていられる。それぐらい心の支えだった。 去年の11月、「病院で死ぬのは嫌だから」といって地元の秋田に戻ったと聞いていた。会いに行こうと思って、いつにしようって話までしていた。そこから1回も返事がなくて……。 年は越せないって言われていたみたいだから、そろそろなのかなと思ってはいたけれど、知らせを聞いたときはやっぱりショックだった。 悔しいし、悲しい。怖い。がんで、私と同じステージ。そういう人がどんどん亡くなっていく。一緒に戦ってくれていた大好きな仲間が、どんどんいなくなる。もっと生きていたかったよね。 一方で、やっと病気から解放されたのね。お疲れさま、とも思う。ずっと、痛い、苦しい、しんどいっていう思いと向き合ってきたはずだから、いまは穏やかに、ゆっくり過ごせていたらいいな。》 今年初め、本格的に、出版に向けた準備が始まった。本誌・女性セブンは、和さんの日々の日記をもとに、定期的にインタビューを行った。「和は病気になってからもずっと仕事をしたがっていました。体調と相談しながら、頑張っていたと思います。取材の日には、毎回話すことを丁寧にメモにまとめていました」(将一さん) 和さんの闘病や育児を綴った日記は、本誌・女性セブンでも折にふれて紹介した。そのたびに編集部には和さんの姿に心を動かされたという読者から大きな反響が寄せられた。「多くのかたがたから励ましのメッセージや手紙をいただき、和はとても喜んでいました。よく読み返していたので、つらいときの心の支えになっていたと思います」(将一さん) 一方で、病状は少しずつ悪化していた。「今年3月、使える抗がん剤は残り2種類で、そのどちらも効かなくなったら、おそらく半年くらいしか生きられないと主治医から話をされました」(将一さん) 4月、腸閉塞を起こして入院。ストマ(人工肛門)造設手術を行い、5月には腎ろう造設手術も受けた。 5月末、退院を控えた和さんは、余命宣告を受けた。「来週万が一のことがあってもおかしくない体の状態だと主治医に説明されました。できる治療はないので、緩和ケア病棟に移るのはどうかと提案されました。 ぼくも和も、治すための治療を続けたいと考えていたので、一旦自宅に戻って、治療をしてくれる病院を探すことにしました」(将一さん)《2021年5月31日(月) 朝、娘にミルクをあげて、洗濯をして、掃除機もかけた。  昼、テレワークで家にいた遠藤さんのために、ペペロンチーノに生卵を落としたパスタを作った。ぺぺ玉。ずっと、こういうことがしたかった。 家族と同じ空間で過ごす。家事をする。娘をあやして、抱きしめる。些細なことだけど、ものすごく尊く感じる。 いまの私は、腸が腫瘍で押しつぶされてしまったので、固形物は食べられない。24時間、点滴で栄養をとっている。痛みを抑えるために、麻薬を入れ続けているから、ぼんやりすることも多い。それでも、ただ生きてるだけでこんなに幸せ。 一生点滴でも、車椅子でも、絶食でもいい。ずっと、家族と一緒にいたい。24年間でいまが一番しんどいけれど、一番幸せ。》 和さんと将一さんは、セカンドオピニオンを利用しながら、できる治療を探し回った。最終的には、東京・御茶ノ水にある病院で、抗がん剤治療を続けられることになった。「治療のための入退院を繰り返してはいたものの、和は『普通の生活』を決して諦めませんでした。 体力的に娘を抱っこすることは難しくても、あやしたり、一緒に遊んだり、健診に連れていったり。 料理が好きだったので、入院期間中のための、ぼくのご飯と娘の離乳食の作り置きもしてくれました」(将一さん) 7月9日、娘は無事に1才の誕生日を迎えた。和さんは当時、こう話していた。「朝、『パッパァ』って娘が初めて口にしたんです! ドレスを着た娘ちゃん、かわいすぎてどうしようと思いました(笑い)。プレゼントは小さいピアノにしました。 生まれたときは小さすぎて心配だったけれど、すくすく健康に育ってくれて、本当に感謝しています。娘ちゃん、一生懸命生きてくれてありがとう。来年もお祝いしたいです!」 和さんの体調は芳しくはなかった。続く絶食と、度重なる入院で体力が落ち、8月には車椅子で生活することも多くなった。  日記は、8月29日を最後に更新が止まった。 将一さんが振り返る。「和は、日記を書き続けていました。手書きが難しくなると、スマホのメモ帳に打ち込んでいました。娘のために本を残す作業は、心の支えになっていたと思います」 娘はすくすくと育ち、最近は立って歩けるようになったという。「四六時中動き回っていて、怪獣みたいです(笑い)。ずいぶん意思疎通ができるようになったと思います。もうすぐしゃべり出すのかと思うと楽しみです。娘が理解できる年齢になったら、『ママは素敵な人だったよ』『ママは全力で愛してくれたよ』と伝えたいです」(将一さん)※女性セブン2021年12月9日号 家中を飾り付けて祝った。「娘には3度お色直しをしました」(和さん) 写真14枚
2021.11.26 16:00
女性セブン
2021年9月、24歳という若さでなくなった遠藤和(のどか)さんと夫の将一さん
「がんステージIVのママ」の最後を支えた「娘に本を遺す」ということ
 2021年9月8日14時11分。遠藤和(のどか)さんが、ステージIVの大腸がんとの闘病の末に息を引き取った。24歳だった。2018年、21歳でステージIVの大腸がんであると宣告を受けた和さん。真っ先に考えたのは「子供を産みたい」ということだった。 抗がん剤治療を始めると、副作用で不妊になる場合があると告げられた彼女は、すぐに「卵子凍結」を考えた。しかし、卵子を採取するためには、抗がん剤治療の開始を遅らせなければならない。さらに妊娠した場合は、その最中に行えるがん治療の選択肢も狭まることになる。その間にがんが進行してしまうかもしれなかった。〈治療が遅れて死ぬのは嫌だ。でも、そのまま抗がん剤治療する道を選んで、赤ちゃんを諦めるのも、ありえない。〉(遠藤和さんの著書『ママがもうこの世界にいなくても』=12月1日発売より。以下同) 和さんは、卵子凍結を望んだ。迷いがないわけではなかったが、強い思いで決断した。家族仲のよい環境で育った和さんにとって、結婚して母になることは幼い頃からの夢だった。どうしても、子供がほしかった。夫の遠藤将一さんが振り返る。「結婚を考えていましたが、あのときはまだ恋人でした。和からは『遠藤さんとの子供がほしい』と言われました。でも僕は、すぐに治療を始めてほしかった。何よりも和に生きてほしかったし、生きるか死ぬかの話なのに子供とか言っている場合じゃないでしょ、とも思いました。授かるかわからない子供を待つより、治療をして、自分の身体を大事にしてほしいというのが率直な気持ちでした」(遠藤将一さん) 和さんの両親も、将一さんと同じように考えていた。和さんの母・千春さんはこう語る。「夫は、そうでしたね。親としては目の前にいる娘が大事だから、と卵子凍結より治療を優先してほしいと考えていました。よくわかりますし、私だって全面的に賛成というわけではありませんでした。でも、ずいぶん悩んだ末に、和から『赤ちゃんを諦めたくない』と相談されたときには、一番大事なのは和の気持ちだ、と思って。あなたが希望を持てるなら、お母さんは味方になるよ、と伝えました。和の思いの強さに、夫も最後は納得して、応援すると決めました」 和さんは、将一さんと何度も話し合いを重ねた。「最終的には、僕も卵子凍結に賛成しました。1回だけです。もし採卵できなかったり、人工授精がうまくいかなかったときには、子供を諦めて、自分の身体の治療に専念する。和とそうやって約束しました」(将一さん)〈私は、死ぬときまで卵子凍結を決めたことを後悔しません。やれることは全部やったと思えるのと、そうじゃないのは、全然違うから。〉──遠藤和さんは前掲著『ママがもうこの世界にいなくても』の中でこう綴っている。 卵子凍結を経て、和さんは2019年12月に将一さんと結婚式を挙げた。 2020年1月、妊娠が判明した。順調に妊娠生活を送っていた和さんだったが、5月にがんの卵巣転移が発覚した。状況は緊迫していた。〈私も、赤ちゃんも、どちらも生きて会えますように。全然考えたくないけれど、もしものときには、娘を助けてほしい。遠藤さんにも前から伝えてある。どちらかを選ばなくちゃいけない状況になったら、赤ちゃんを優先してください。〉 2020年7月9日、和さんは命がけの出産に臨んだ。27週目、帝王切開だった。幸い母子ともに無事だった。しかし、その後の卵巣摘出手術では、産まれた娘の3倍近くの重さの腫瘍が摘出された。 和さんは、できるかぎり母親としての役割を果たしたいと願い、努力した。入院する前には期間中の離乳食や食事を作り置きし、自力で台所に立てなくなっても、ソファに臥したまま野菜をカットした。自分では食べ物を飲み込めなくなっても、家族が作った料理を口に入れて、味つけを仕上げた。娘の健診には、車イスで立ち会った。 和さんは、家族の助けを借りて厳しい闘病に立ち向かいながら、娘のために日記を書き続けていた。〈彼女がもう少し大きくなって何かに迷ったとき、私の人生の選択が少しでも参考になったら、うれしいなと思う。〉 娘のために、自らの生きた日々を書き遺すこと──それは、和さんの心を支える作業でもあった。遠藤和さんがまとめた著書『ママがもうこの世界にいなくても』の「はじめに」で、夫・将一さんはこう記している。〈2021年9月8日、14時11分。約3年の大腸がんとの闘病の末、妻の遠藤和は息を引き取りました。24歳でした。 彼女は心優しい両親と2人の妹に囲まれて、青森で育ちました。家族や友達、仲間、みんなから「のんちゃん」と呼ばれてかわいがられる、愛にあふれた女性でした。明るくて、押しが強くて、料理とデパコスが大好きでした。スーパーの店員さんに声もかけられないほど、めちゃくちゃ人見知りな一面もありました。 2016年10月4日、夜の本町。互いに仕事終わりだった僕たちが出会ったのも青森でした。6歳年下の彼女は初めて出会ったその日から、僕のことを好きになってくれました。いつも隣で笑っていて、僕や娘においしい手料理を食べさせたいと張り切ってキッチンに立ってくれました。和に大腸がんが発覚したのは、2018年です。そろそろ結婚の話をしよう、そう思っていた矢先のことでした。医師の先生方は口を揃えて若い女性の大腸がんは珍しいと言いました。なんで21歳の和が、と思いました。 彼女の夢はわが子を産み、母として愛情を注いで育てることでした。翌年に結婚してすぐ、僕たちは娘をさずかりました。奇跡のような出来事だと思っています。和は抗がん剤治療を一時的に休止して、お腹の赤ちゃんを守ると決めました。帝王切開のとき、1000gにも満たなかった娘はすくすく育ち、2021年7月9日に無事に1歳の誕生日を迎えました。和は食パンとヨーグルトで、赤ちゃんでも食べられるケーキを作って、お祝いをしました。 がんの発覚からほどなく、根治が難しいステージIVのがんだと宣告されたとき、和からは、普通の暮らしを続けるのが願いだと言われました。仕事を辞めて治療に専念したらどうか。そんな話をしたこともあります。でも、働きたいと言われました。和にとって仕事をすることは、料理をすることと同じぐらい、ありふれた幸せな暮らしを象徴するものだったのかもしれません。妊娠中も、食堂で働いていたほどです。 小学館の雑誌『女性セブン』から取材の申し込みがあったのは、次第にがんが進行して、アルバイトも難しくなってきた2020年の冬でした。雪の夜、記者さんが突然家を訪ねてきたので、とても驚いたことを覚えています。『笑ってコラえて!』やインスタで私たちのことを知ったということでした。人見知りの和は警戒し、最初は迷っていました。 でも、それから数か月の間、記者さんとメールや電話でやりとりをするうちに、万が一のときには娘に残せる記録になるかもしれないと思いました。和も同じように感じていたようだったので、2人で相談し、日記をもとにした定期的なインタビューを受けると決めました。結婚記念日の12月21日を目標に、娘のために本をつくることになりました。約1年、記者さん、編集者さんと一緒に、和は熱心に取り組みました。次第に症状は悪化し、長時間のインタビューに応えることが難しくなって。それでも、彼女は日記をつけて、手で書けなくなるとスマホに打ちました。和の闘病や育児の様子が雑誌に掲載されるたびに、多くの方々から励ましのメッセージや手紙をいただきました。 和は、治すための治療を続けていました。諦めずに治療を続ければ、絶対にがんは治ると、僕も和も信じていました。だから、僕はこの本を、死ぬことを目前にしたひとりの女性の、つらいばかりの闘いの記録だとは思っていません。和は、がんと闘いました。ただ生きただけでなく、ありきたりの幸せを手放さないように、一生懸命に生きました。正直な気持ちとは違うから、やり切ったねとか、立派な最期だったとか、そんなことは言いたくありません。どんなことをしても、生きてほしかった。 僕が仕事に出ている日中、点滴の管に取り囲まれる和を助けてくれたのは、青森から上京してきた2人の妹、遥ちゃんと結花ちゃんでした。この夏には、和の実家、櫛引家のご両親も東京に転居して、サポートしてくれました。僕らのもとを折々に訪ねて励ましてくれたり、コロナで会えなくても、遠くから見守ってくれた友人たちがいなければ、心の平静を保つことも難しかったと思います。 和は、9月2日まで原稿の打ち合わせを続けました。本のために必要な多くの作業を済ませましたが、すべてを終えることはできませんでした。ぎりぎりまで取り組むことができたのは、雑誌やテレビで和のことを知り、手紙やインスタで応援のメッセージを送ってくださった方々の支えがあったからです。ありがとうございます。 原稿をまとめる作業で、和の手が届かなかったところは、僕が代わりました。それから遥ちゃんと結花ちゃん、ご両親も協力してくれました。娘が将来、母である和の姿を知るための記録を残せたことに、ほっとしています。 和と僕が、欠点だらけの、どこにでもいるありふれた夫婦だと知りながらも、日々、温かい言葉をかけてくださったすべての皆さまに感謝します。 2021年11月 遠藤将一〉
2021.11.19 16:00
NEWSポストセブン

トピックス

紺色のお召し物だった紀子さま
紀子さま、悠仁さまに「悪夢の再来」 宮内庁17cm包丁送付事件、同封便箋には皇族批判
女性セブン
京都の街を歩く舞妓のイメージ(写真/イメージマート)
元舞妓の告発に有名歌舞伎役者たちが大慌て 関係が露見すれば廃業は必至か
女性セブン
逮捕された「RYO&YUU」
「バレないように森の中で」公然わいせつ逮捕「RYO&YUU」が語っていた野外動画撮影の“対策” 実際には公園、海岸でも裸に
NEWSポストセブン
よくぞ言った!江口のりこがぶっちゃけたテレビのタブー「番宣出演は意味がない」
よくぞ言った!江口のりこがぶっちゃけたテレビのタブー「番宣出演は意味がない」
NEWSポストセブン
ゴルフをする女性芸能人が増えている(左は小島、右は鷲見。ともに本人のインスタより)
タイトなウェア姿を投稿しまくりの小島瑠璃子と鷲見玲奈「ゴルフ女子」枠巡る熾烈な戦い
NEWSポストセブン
ポスト和久田麻由子アナに浮上 「元東大ミスコン」堀菜保子アナ(27)の“大きな武器”
ポスト和久田麻由子アナに浮上 「元東大ミスコン」堀菜保子アナ(27)の“大きな武器”
NEWSポストセブン
TBS・安住紳一郎アナウンサーの魅力の源は?(時事通信フォト)
「定年までTBSに」先輩・吉川美代子アナが期待する安住紳一郎アナのこれから
週刊ポスト
結婚を発表し、お相手を「建築会社」とした滝沢。「一般男性」とは言っていない
滝沢カレン結婚!「テラハ」出演“肉食系”ハーフモデルのどこに惹かれたのか
NEWSポストセブン
眞子さまの箱根旅行のお姿。耳には目立つイヤリングも(2018年)
小室圭さんの妻・眞子さん 華やかだった4年前の「箱根・女子旅ファッション」
NEWSポストセブン
逮捕された「RYO&YUU」
公然わいせつ逮捕「RYO&YUU」、性的動画アップは「親公認」だった 22歳の女は愛知・香嵐渓で全裸に
NEWSポストセブン
結婚し、日本メディアが情報をキャッチしづらいNYで、デイリーメールが追跡取材(写真/JMPA)
小室圭さん・眞子さん夫婦が「離婚で終わったとしても…」英デイリー・メールが報じた「茨の道」
NEWSポストセブン
高橋真麻
高橋真麻「おでんの卵8個食べても太らない」女性が憧れる美スタイルの理由
NEWSポストセブン