ライフ

井上ひさし 原稿遅れ一番困るのは出版社でなく自分と怒った

 松田哲夫氏は1947年生まれ。編集者(元筑摩書房専務取締役)。書評家。浅田彰『逃走論』、赤瀬川源平『老人力』などの話題作を編集。1996年にTBS系テレビ『王様のブランチ』本コーナーのコメンテーターを12年半務めた松田氏が、井上ひさし氏の「吉里吉里人」執筆当時を振り返る。

 * * *
 井上ひさしさんの「吉里吉里人」だが、創刊号の第一回はギリギリで原稿が入り、なんとか掲載にこぎ着けることができた。

 ホッとする間もなく、第二号の締め切り日が過ぎようとしていたころだった。ぼくは、いつものように井上さんに電話をいれた。「どうでしょうか? そろそろ頂けますか?」。すると、彼は「吉里吉里人」のこれからの展開を具体的に楽しく語り、一転して他誌のギリギリまできている原稿の状況をやや沈痛な口調で話し始めた。

 かなり能天気なぼくでも、締め切り日に原稿がもらえるなどという甘い考えでいたわけではない。ただ、何としても休載だけは避けたかった。そこで、校正や挿絵のことなど、入稿後の作業についてクドクドとしゃべった。そして、最後にどう言えばいいか考えあぐねて、自分に語りかけるようなつもりで「困りましたねえ」と付け加えたのだ。

 その時、電話の向こうから、激しい怒りを抑えているということがはっきり判る声が返ってきた。「『困る』とはなんですか。原稿が書けなくなって一番困るのは、出版社の人間ではなくて自分です。会社の人間と違って、そうなったからといって誰も助けてはくれない。そうでしょう。……そちらが『困ります』というのであれば、ぼくとしては書けません」

 いつもよりやや甲高い声音で一息に話すと、井上さんは一方的に電話を切った。ぼくは凍りついた。ながい編集者人生でも一番衝撃的な瞬間だった。

 あわてて電話をかけ直し丁重にお詫びをしたが、井上さんは「ぼくも言いすぎました。でも、今は原稿に向かおうという気持ちになれません」と言う。ぼくは途方に暮れて、編集長の原田さんに相談した。その結果、あってお詫びするのではなく手紙を書こうということになり、その晩、市川にある井上さんのお宅にでむき、謝罪文をポストに入れてきた。

 かなり緊張したが、数日後から連絡を再開した。校了日をすぎたあたりでホテルに缶詰めになってくれ、本当のギリギリになって原稿は入りはじめた。部屋のドアを少しあけて渡された最初の一枚のうれしさは喩えようもない。

「第二章 俺達の国語ば可愛がれ……」、ぼくは廊下で貪るように読んだ。それから、渡される枚数は三枚、五枚と、少しずつ増えていく。ぼくは、吉里吉里国の運命を、真っ先に読めるという贅沢に酔いしれていた。

※週刊ポスト2012年9月7日号

関連キーワード

関連記事

トピックス

水原一平氏のSNS周りでは1人の少女に注目が集まる(時事通信フォト)
水原一平氏とインフルエンサー少女 “副業のアンバサダー”が「ベンチ入り」「大谷翔平のホームランボールをゲット」の謎、SNS投稿は削除済
週刊ポスト
解散を発表した尼神インター(時事通信フォト)
《尼神インター解散の背景》「時間の問題だった」20キロ減ダイエットで“美容”に心酔の誠子、お笑いに熱心な渚との“埋まらなかった溝”
NEWSポストセブン
水原一平氏はカモにされていたとも(写真/共同通信社)
《胴元にとってカモだった水原一平氏》違法賭博問題、大谷翔平への懸念は「偽証」の罪に問われるケース“最高で5年の連邦刑務所行き”
女性セブン
富田靖子
富田靖子、ダンサー夫との離婚を発表 3年も隠していた背景にあったのは「母親役のイメージ」影響への不安か
女性セブン
尊富士
新入幕優勝・尊富士の伊勢ヶ濱部屋に元横綱・白鵬が転籍 照ノ富士との因縁ほか複雑すぎる人間関係トラブルの懸念
週刊ポスト
《愛子さま、単身で初の伊勢訪問》三重と奈良で訪れた2日間の足跡をたどる
《愛子さま、単身で初の伊勢訪問》三重と奈良で訪れた2日間の足跡をたどる
女性セブン
水原一平氏と大谷翔平(時事通信フォト)
「学歴詐称」疑惑、「怪しげな副業」情報も浮上…違法賭博の水原一平氏“ウソと流浪の経歴” 現在は「妻と一緒に姿を消した」
女性セブン
『志村けんのだいじょうぶだぁ』に出演していた松本典子(左・オフィシャルHPより)、志村けん(右・時事通信フォト)
《松本典子が芸能界復帰》志村けんさんへの感謝と後悔を語る “変顔コント”でファン離れも「あのとき断っていたらアイドルも続いていなかった」
NEWSポストセブン
水原氏の騒動発覚直前のタイミングの大谷と結婚相手・真美子さんの姿をキャッチ
【発覚直前の姿】結婚相手・真美子さんは大谷翔平のもとに駆け寄って…水原一平氏解雇騒動前、大谷夫妻の神対応
NEWSポストセブン
違法賭博に関与したと報じられた水原一平氏
《大谷翔平が声明》水原一平氏「ギリギリの生活」で模索していた“ドッグフードビジネス” 現在は紹介文を変更
NEWSポストセブン
カンニング竹山、前を向くきっかけとなった木梨憲武の助言「すべてを遊べ、仕事も遊びにするんだ」
カンニング竹山、前を向くきっかけとなった木梨憲武の助言「すべてを遊べ、仕事も遊びにするんだ」
女性セブン
大ヒットしたスラムダンク劇場版。10-FEET(左からKOUICHI、TAKUMA、NAOKI)の「第ゼロ感」も知らない人はいないほど大ヒット
《緊迫の紅白歌合戦》スラダン主題歌『10-FEET』の「中指を立てるパフォーマンス」にNHKが“絶対にするなよ”と念押しの理由
NEWSポストセブン