ライフ

村上春樹 32年前の「最高傑作」で日中関係暗示していたとの評

 惜しくもノーベル賞は逃したものの、村上春樹氏が現代の日本文学を代表する作家であることに違いはない。世界を惹きつける村上ワールドの魅力はどこにあるのか。作家で五感生活研究所の山下柚実氏が考察する。

 * * *
「(領土問題は)安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ」

 朝日新聞(2012.9.28)に寄稿された村上春樹氏のエッセイは、国内のみならず、世界中で反響を呼びました。反日感情溢れる中国のツイッターにさえ、共感を含めコメントがたくさん書かれたそうです。複雑な歴史、錯綜する感情、政治的駆け引き、損得勘定。そんなにも対立する国家、こんがらがった領土問題を、手のひらの上に載せてみせる。読み手の腑に落とす。少なくとも、国際関係を理解できたかのように読者に飲み込ませる。それが、「安酒の酔い」というレトリック表現の力です。

 複雑な出来事を、大論文や大演説ではない、別の言葉を使って表現する行為。  レトリックは、理解しがたい出来事に対して新鮮な見方やスリリングな接近の楽しさを与えてくれます。こんがらがった糸がするすると解けていくような心地よさも、感じさせてくれます。もはや、政治家の大演説やリーダーシップによって国際関係のねじれや対立を「収め」たり「理解」していく時代は終わろうとしているのかもしれません。村上氏の「書く技術」は、そのことを告げてはいないでしょうか。

 この作家の魅力の一つは、レトリックがとびぬけて秀逸で斬新なこと。そして、描く対象と作家自身とが絶妙な距離を保っていることです。初期の『羊をめぐる冒険』から大ベストセラー『ノルウェーの森』、近作『1Q84』まで。数々の長編作品が世界中で話題を集めていますが、その真骨頂は、長い演説のようになりがちな恋愛長編小説よりも、むしろ、人と人、人と社会との関係を一瞬に、そして鮮やかに切り取る短編小説にこそ詰まっている――私はそう思います。 

 あなたにとって村上作品の最高傑作は何か?と聞かれたら、私は迷わずこう答えます。

「中国行きのスロウ・ボート」(1980年4月 『海』)と。

 大都会で、たまたま言葉を交わすことになった男と女。もう一度会いたいと念じて、人混みから必死に彼女の姿を捜し出し、連絡先を書き留めたのに、運命のいたずらでもう二度と会えなくなる二人。一人は中国人、一人は日本人。小説の終盤に、こんなフレーズが。

「空白の水平線上にいつか姿を現すかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。そして中国の街の光輝く屋根を想い、その緑なす草原を想おう」

 そして「友よ、中国はあまりに遠い」という言葉で、この小説は幕を閉じます。

 32年前に書かれた一編の短い小説。日中関係についての早すぎた暗示を、もう一度じっくりと読み返し、噛みしめるべき時が来たのかもしれません。

関連キーワード

関連記事

トピックス

永野芽郁のマネージャーが電撃退社していた
《坂口健太郎との熱愛過去》25歳の永野芽郁が男性の共演者を“お兄ちゃん”と呼んできたリアルな事情
NEWSポストセブン
ウクライナ出身の女性イリーナ・ザルツカさん(23)がナイフで切りつけられて亡くなった(Instagramより)
《監視カメラが捉えた残忍な犯行》「刺された後、手で顔を覆い倒れた」戦火から逃れたウクライナ女性(23)米・無差別刺殺事件、トランプ大統領は「死刑以外の選択肢はない」
NEWSポストセブン
国民に笑いを届け続けた稀代のコント師・志村けんさん(共同通信)
《恋人との密会や空き巣被害も》「売物件」となった志村けんさんの3億円豪邸…高級時計や指輪、トロフィーは無造作に置かれていたのに「金庫にあった大切なモノ」
NEWSポストセブン
国民に「リトル・マリウス」と呼ばれ親しまれてきたマリウス・ボルグ・ホイビー氏(NTB/共同通信イメージズ)
ノルウェー王室の人気者「リトル・マリウス」がレイプ4件を含む32件の罪で衝撃の起訴「壁に刺さったナイフ」「複数の女性の性的画像」
NEWSポストセブン
愛子さまが佳子さまから学ぶ“ファッション哲学”とは(時事通信フォト)
《淡いピンクがイメージカラー》「オシャレになった」「洗練されていく」と評判の愛子さま、佳子さまから学ぶ“ファッション哲学”
NEWSポストセブン
年下の新恋人ができたという女優の遠野なぎこ
《部屋のカーテンはそのまま》女優・遠野なぎこさん急死から2カ月、生前愛用していた携帯電話に連絡すると…「ポストに届き続ける郵便物」自宅マンションの現在
NEWSポストセブン
背中にびっしりとタトゥーが施された犬が中国で物議に(FB,REDより)
《犬の背中にびっしりと龍のタトゥー》中国で“タトゥー犬”が大炎上、飼い主は「麻酔なしで彫った」「こいつは痛みを感じないんだよ」と豪語
NEWSポストセブン
(インスタグラムより)
《“1日で100人と寝る”チャレンジで物議》イギリス人インフルエンサー女性(24)の両親が現地メディアで涙の激白「育て方を間違ったんじゃないか」
NEWSポストセブン
藤澤五月さん(時事通信フォト)
《五輪出場消滅したロコ・ソラーレの今後》藤澤五月は「次のことをゆっくり考える」ライフステージが変化…メンバーに突きつけられた4年後への高いハードル
NEWSポストセブン
石橋貴明、現在の様子
《白髪姿の石橋貴明》「元気で、笑っていてくれさえすれば…」沈黙する元妻・鈴木保奈美がSNSに記していた“家族への本心”と“背負う繋がり”
NEWSポストセブン
ドバイのアパートにて違法薬物所持の疑いで逮捕されたイギリス出身のミア・オブライエン容疑者(23)(寄付サイト『GoFundMe』より)
「性器に電気を流された」「監房に7人、レイプは日常茶飯事」ドバイ“地獄の刑務所”に収監されたイギリス人女性容疑者(23)の過酷な環境《アラビア語の裁判で終身刑》
NEWSポストセブン
Aさんの乳首や指を切断したなどとして逮捕、起訴された
「痛がるのを見るのが好き」恋人の指を切断した被告女性(23)の猟奇的素顔…検察が明かしたスマホ禁止、通帳没収の“心理的支配”
NEWSポストセブン