【書評】『女相撲民俗誌 越境する芸能』亀井好恵/慶友社/5040円
【評者】井上章 一(国際日本文化研究センター教授)
女相撲という言葉を聞いて、多くの人は何を思いうかべるだろう。女がまわしをしめて、土俵にあがる。ずいぶん助平なもよおしだと、そう考えてしまうのではなかろうか。ストリップめいた見世物が、脳裏によぎるという人だって、いるかもしれない。
しかし、この常套的な構図には、歴史的な起源がある。一九二〇、三〇年代の好色メディアが、こういう印象をまきちらし、定着させた。それが、女相撲ほんらいの姿を、過不足なくつたえているわけではないにもかかわらず。
民俗学の研究者は、しばしば女相撲が雨乞いの呪術とともにあることへ、目をむける。そして、女の力士たちには霊的な力が期待されていたと、言いたがる。けがれをもつとされた女たちの、巫女的な側面に光をあてやすい。
著者は、女相撲が伝承されてきた地域の人々を、たずねあるいてきた。それの何が、おもしろかったのか。観客は、何をもとめていたのか。以上のような取材をかさねることで、女力士の霊力という民俗論をくつがえす。のみならず、こういううけとり方をまきちらしてきた民俗学という学問に、刃をつきつけた。
セクシュアルな見世物という見方を、全面的にはしりぞけていない。だが、そういうとらえ方ではおさまりきらないところにも、言葉をついやしている。女相撲を見てたのしむのは、女だけだったという地域も、けっこうあった。見るだけではおさまらず、自分もやってみたいと思った女は、けっしてすくなくない。
女子プロレスにあこがれ、入門へふみきった少女は、おおぜいいた。宝塚の男役に想いをよせた少女も、すくなくない。そして、女相撲にもそうした一面は、まちがいなくあった。
集落のなかで、そんな想いがたかまり、とうとう自分たちでもやってみようとする。そこへといたる機微が、うかびあがってくるところは、じつにおもしろい。集落のどういう女が音頭をとったのかという分析にも、おしえられた。
※週刊ポスト2013年2月15・22日号