東京・練馬。桜の季節には大勢の花見客で賑わう並木通りも、今は新緑が目にまぶしい。栴檀の木も薄紫の小さな花を咲かせ、カキツバタが気持ちよさそうに水池にそよぐ。
この石神井公園にほど近い閑静な住宅街で、99歳の俳人・文挾夫佐恵(ふばさみ・ふさえ)さんは娘夫婦とともに暮らしている。
100歳を前にしても、下の歯3本を部分入れ歯にしているだけで、飲んでいる薬も一切ない健康体だという文挾さん。生活は規則正しく、朝の9時に起床し、20時には就寝する。食事に好き嫌いはなく、まぐろの刺し身が大好物。チャーハンやカレーなども口にする。お酒は飲まない。
天気がよければ、長女の恵子さんと散歩もする。ゆっくり時間をかけて、近所の石神井公園などをまわる。そこで感じる四季の移ろいや咲く花たちが、創作の泉となることも多いようだ。
文挾さんは今年、明治から昭和にかけて活躍した俳人・飯田蛇笏にちなんで設けられ、俳句界最高の栄誉といわれる蛇笏賞を受賞した。99歳での受賞はもちろん、同賞の最高齢受賞者だ。
選ばれたのは句集『白駒』(角川書店刊)。タイトルは中国の書物『荘子』の中にある「人生天地之間、若白駒之過郤、忽然而已」から採用したという。「天地の間で過ごす人生などというものは、扉の隙間から白馬が駆けるのをのぞき見ているようなもので、ほんの一瞬のこと」を意味する。本句集は文挾さんの第7句集にあたり、92歳から98歳までの456句が収められている。
「最近これといったものが浮かんでこなくなった」(文挾さん)とは言うものの、創作意欲が衰えることはなく、現在も名誉主宰をつとめる俳誌『秋』で毎月5句を発表し続けている。
「俳句は気持ちの拠りどころ。やめようと思ったことは一度もない」(文挾さん)
蛇笏賞選考委員の一人、金子兜太氏はそんな文挾さんの句を絶賛する。
「高齢になると衰えるものだが、文挾さんは一貫して向上してきた。作品の完成度が高く、気合と格調を、特に諧謔を込めて美しく響かせていた」
なかでも金子氏が特に素晴らしいという句について、解説してもらった。
【あな踏みし華奢と音してかたつむり】
「思わず踏んでしまった、かたつむり。その殻の音。この句がうまいと思うのは、踏んだときの音感を華奢という漢字で表記し、きゃしゃ、とルビをふって見せている点。殻を踏んでしまってその聞き慣れぬ音に驚いた、という気持ちと、少しおどけたような、華やいだような雰囲気とを見事に組み合わせ表わしている。
五感を意識した句をつくるという点において、熟達した俳人であると同時に、よほど感性が若くなければ詠めないものです」
【老い痴れて魑魅魍魎と春惜しむ】
「自分も歳をとり、老いて、少し呆けてしまっている。いつもお化けのような異次元のものと遊んでいる感じがあり、それらとともに、過ぎてゆく春を惜しみ、嘆いているのですよ。
……と言いながらも、信じているんですね、自分の若さを。老いてゆく自分の状態を客観視し、誇張してユーモアたっぷりに表わしている。本当はちっとも自分のことを『老い痴れて』などと思っていないはずです(笑い)。『自分を演出する』力、文挾さんはこれが飛びぬけて優れている」
さらに、文挾さんから引き継いで、現在『秋』主宰をつとめる佐怒賀正美さんも、文挾さんの句の魅力についてこう語る。
「80歳や90歳を超えても“現代的な感覚”を持ち続けながら、それを熟した形で五・七・五にまとめることができる稀有な人。若いうちは感覚で詠むことができるのですが、普通は年を重ねるごとに発想が内にこもりがちになる。でも、文挾さんは外にもひらいて詩情が痩せない」
※週刊ポスト2013年6月14日号