例えば第1話「せっかくですもの」は主人公〈宮崎恵理子〉が、最寄駅にあるドトールのガラス越しに、駅を行き交う人々を見るともなく見ている場面で始まる。
〈ふたりで差し向かいとなる小さなテーブルには、受け皿とそのコーヒー・カップの他に、パセリの袋がひとつ置いてあった〉〈ついさきほど、彼女はパセリひと袋だけの買い物をした。パセリひと袋の買い物は初めての体験だった〉〈夕食に作る予定の料理のひとつに、パセリのみじん切りが必要だった。パセリは冷蔵庫のなかにあったが、買ったのは三週間前であることを思い出したので、新たにパセリだけを買った〉
やがて店内を偶然訪れた父親と期せず始まる会話。父を駅へ見送り、帰宅した彼女が女友達に呼び出されて出かけたスペイン料理店での会話。どれもとりとめがないが、父親と同じ会計士の道に進むことを決め、まもなく実家を出て一人暮らしを始める30歳の彼女は、〈引っ越し荷物〉についてこんな名言を吐くのである。
〈荷造りはほとんど出来た。部屋は打ち捨てられた日常そのものだよ〉〈もはや遠い思い出。あるかなきかの〉〈以前のままにしておく部分と、送り出す荷物とのふたつに分かれていて、そのどちらもが、ひどく切ない〉
「引っ越す時は、まず引っ越ししようと決めるでしょ、荷物が多くて意外に時間がかかるでしょ。それをリアルに書いても面白くも何ともないんです。その現実を小説に作り直すには、荷物がほぼ出来た地点に始点を置く。すると荷物を見ている人の中でそこまでの時間とそれからの時間が去来して、ちょうどいいわけね」
と、簡単に氏は言うが、読む者には使われなかったパセリまでが打ち捨てられた日常に思え、行方が案じられてならない。料理されなかったパセリ、かつては語られなかった〈「なぜ抱いてくれなかったの」〉(第4話・表題)という女の一言等々、あるかなきかの存在を丸ごと肯定するような、片岡作品という写真である。
「そう、ほどほどの肯定ですね。今の世の中や現実に対して否定から入るつもりはないし、過去を徒に懐かしんでも仕方ないでしょう。僕の弱点は暗い話が書けないこと。第4話なんて、一発ヒット曲があるだけの演歌デュオのその後という、今度こそどんづまりな話が書けそうだったのに、〈救いもなんにもない歌詞でさ。男と女が負けていくのよ、あらゆるものに〉と、歌った本人が明るく言う(笑い)。『なぜ抱いてくれなかったの』と言った女と再会した男の関係も、まだその先に物語は続くわけですから」