吉田氏はその時のことを私にこう語った。
「ただ、ひたすらもう、どうしようっていうことだけが頭を巡ってですね、最後はどういう形で現場の連中と折り合いっちゅうか、プラントとの折り合い、水を入れ続ける人間は何人ぐらいにするか、とかですね。誰と誰に頼もうかなとか、そういうことですよ。それは誰に“一緒に死んでもらおうか”ということになりますわね。こいつも一緒に死んでもらうことになる、こいつも、こいつもって、顔が浮かんできましたね。水を入れたりするのは、復旧班とか、防災班の仕事になるんですよ。私、福島第一の保修では、三十代の初めから働いてますからね。一緒に働いた連中、山ほどいますから、次々顔が浮かんできましたよ。最初に浮かんできたのは曳田という保全部長です。これが復旧班長なんです。これはもう、本当に同い年なんですよ。高卒で東電に入った男なんですけどね。昔からいろんなことを一緒にやってきた男です。こいつは一緒に死んでくれるだろうな、と真っ先に思いましたね」
生と死を考える場面では、やはり若い時から長くつき合ってきた仲間の顔が浮かんだことを吉田氏はしみじみと語った。
「やっぱり自分と年嵩が似た、長いこと一緒にやってきた連中の顔が浮かんできましてね。死なしたら可哀想だなと思ったんですね。だけど、どうしようもないよな、と。ここまで来たら、水を入れ続けるしかねぇんだから。最後はもう、諦めてもらうしかねぇのかな、と。そんなことがずっと頭に去来しながら、座ってたんですね……」
つまり、吉田氏は一緒に「死んでもらう」人間以外は、退避してもらうことを決断していたのである。自分の命令に「違反」して部下たちが「逃げた」どころか、吉田氏は他人からは窺い知れないほどの厚い信頼を部下たちに置いていたのだ。
「もうダメだと思いましてね。何があっても水を入れ続けないといけないからね。それには何人ぐらい要るのかな、と。ここにいる人間で、そこまで付き合ってくれるのは誰かなということを勘定していたわけです」
その結果、残ったのが外紙が報じた“フクシマ・フィフティ”である(実際の数は、「六十九人」だった)。(つづく)
◆門田隆将(かどた・りゅうしょう)/1958(昭和33)年、高知県生まれ。『この命、義に捧ぐ 台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡』(角川文庫)で第19回山本七平賞受賞。近著に『太平洋戦争 最後の証言』(第一部~第三部・小学館)、『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP)、『狼の牙を折れ 史上最大の爆破テロに挑んだ警視庁公安部』(小学館)、『記者たちは海へ向かった 津波と放射能と福島民友新聞』(角川書店)がある。