社会部記者出身のジャーナリストとして、時に冷静に、時に熱くニュースを解説する大谷昭宏さん(69才)。そんな彼を育てたのは職人の父と高等女学校出身の母だった。父の葬儀を経験した大谷さんが、父の在りし日の姿について語る。
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「将来は好きなことをしておくれ」
両親の口癖だった。ぼくらの卒業後の進路に口を挟むことがなかったのは、具体的な職業を言おうにも、職人の夫婦にはその仕事の内容がわからなかったからじゃないか。できのよかった弟は東京大学へ、新聞記者になりたかったぼくは早稲田の付属高校に進学した。
その頃、既製服の普及で、高級紳士服店が立ち行かなくなると、親父は勤めを辞めて、自宅で注文を請け負うようになった。
修業を積んだ職人は強い。既製服が全盛になっても、仕事に困ることはなかった。内閣総理大臣を務めた幣原喜重郎氏や、朝日新聞副社長で自由党総裁を務めた緒方竹虎氏、作家の野村胡堂氏といった、いい常連客が親父の仕立てる紳士服に袖を通していた。
親父は裁断の名人で、大きな裁ち鋏で迷いなく生地を裁断していく。晩年は鋏を握る利き手の2本の指がほとんど動かなくなっていたが、「この指はおれの勲章だ」と親父は胸を張るように言っていた。
1960年代後半、学生運動が激しかった時代で、大学生のぼくも運動に一生懸命だった。
「お前、何才になった? 20才といえば、おれがマントを縫っていた年じゃないか」
それは当時、親父がぼくに言った言葉だ。縫製職人にとっていちばん難しいのはマントで、マントが縫えるようになれば職人として一人前というわけだ。モノ作りの世界しか知らない親父は職人の成長の基準で、息子に説教めいたことを語ったのだ。
「おれが20才の頃はマントが縫える一人前の職人だったぞ。それに引き替えお前はなんだ。学生運動か何だか知らんが、大学で石ころを投げて、この馬鹿者!」
親父はそう言いたかったに違いない。
一方でおふくろの期待に応え、東大法学部に進学した弟はラクビー部に所属し、巨漢を生かして本当の運動に熱中した。だが、弟もぼくとは別の意味で親父、おふくろに心配をかけた。ラクビーで眉間を切る大けがを負ったときのことだ。
「こんな大けがをさせるために、おれはお前を大学に入れたんじゃねえ!!」
病院に駆けつけた親父は烈火のごとく弟を怒った。あんな親父を見たのは、後にも先にもあの時だけだった。それだけ子供たちを大事に思っていたのだ。
1968年、大阪読売新聞社に就職すると、親父は紺のスーツをあつらえてくれた。
「初対面でいきなりどういう人間かなんてわからない。人は服装を見てどんな趣味か、どんなタイプかを判断するものだから、ちゃんとした格好をしておけ」
縫製を生業としてきた親父らしい言葉だった。どんな時でも失礼にならないよう、スーツを着てネクタイを締める。報道番組に出演するようになって、よりその時の親父の言葉を意識するようになった。
1987年、ぼくは会社を辞めてフリーになった。仕事が東京中心になり、家で親父と一緒に酒を飲む機会も増えた。
「宮川は日本一綺麗な川だ」
伊勢には14才までしかいなかったが、晩年、親父は伊勢市を流れるその川を自慢した。
「今度の遷宮は見られるかな」
陽気な酒の席で、親父は20年に1度の伊勢神宮の社殿を造り替える式年遷宮祭を見たいと言っていた。
「これがまあ、最後だろう」
遷宮の前年の1992年末、親父とおふくろは伊勢に帰省した。しかし、心臓が悪かった親父は遷宮祭を迎えることができず、都内に戻り、通院を強いられた。
親父が再び伊勢の地を訪れることはなかった。だが、親父の最後の帰省は「真っ当」という幟を掲げ、故郷に錦を飾った旅だった、そんな気がぼくはしている。1993年2月の厳寒の日。心臓が悪かった親父が病院に担ぎ込まれた。
「仕事があるんだろう。さっさと帰れ」
元気そうな親父を目にして、大丈夫だろうと大阪に戻るなり、急変したという連絡をもらった。荻窪の家で対面した親父の亡骸の上には長年使いこんだ大きな裁ち鋏があった。
■聞き手・文/根岸康雄
※女性セブン2015年2月19日号