■「テロ対応は特定秘密に」
日本政府も読売、産経も、いまだに後藤氏の功績を称えようとはしていないが、世界は違う。
オバマ大統領は後藤氏殺害直後に声明のなかで、「後藤氏は報道を通じ、勇気を持ってシリアの人々の窮状を外部の世界に伝えようとした。われわれの心は後藤氏の家族や彼を愛する人々と共にある」と述べた。その後も世界のリーダーたちが同氏の功績を称えた。
もちろん、後藤氏の判断や行動を称賛できないという考え方もあっていい。しかし、あの惨劇の後で自国民に対して一切のリスペクトも評価も口にしない安倍首相は異様である。読売や産経も、彼らが大好きな日本人の武士道がまるで感じられないのは残念だ。
その後、シリアに渡航しようとしたフリーカメラマンのパスポートを外務省が取り上げる事件が起き、そこでも読売と産経は、
〈命か、憲法が保障する渡航の自由か、議論するまでもないだろう。“蛮勇”が途方もない代償を払うことを思い知ったばかりだ〉(2月9日付、読売)
〈外務省は警察庁とともに(中略)再三にわたって渡航の自粛を強く要請してきた〉(2月10日付、産経)
と、政府に追従して「ジャーナリストは取材を自粛せよ」という。朝日新聞がシリアに取材に出向いたことも両紙は厳しく批判した。
一方でアメリカでは、1月にジャーナリストの安全に関する国務省の会議が開かれ、ケリー国務長官はこう述べている。
「ジャーナリズムに危険が伴うことは避けられない。唯一の方法は口を閉ざすことだが、それは(テロや脅威に)屈することになる。世界は真実を知る必要がある」
ここでも日本政府や読売、産経と180度違う。
ジャーナリズムを敵視し、憲法で保障された移動の自由さえ奪おうというのは先進国のやり方ではない。それをしているのは北朝鮮であり中国共産党だ。安倍氏や読売、産経はどちらの社会を目指すのか。立ち位置がアベコベに見える。
もちろん、後藤氏にせよフリーカメラマンにせよ、その行動に見合う知識や技術、人脈、準備があったかどうかは厳しく問われる必要がある。しかし、それと取材そのものを悪とみなすことは全く次元が違う。
安倍内閣は2人が殺された直後に「政府の対応に問題はなかった」と閣議決定した。これも大メディアは批判しなかったが、政府の対応を検証する会議が招集されたのは閣議決定の後である。何をしたかの中身も明らかでない段階で「問題はなかった」という根拠は何だったのか。
これもアメリカの例を見よう。2月4日に人質事件への政府対応をテーマにしたシンポジウムが開かれ、その席でフランツ国務次官補は「政府として正しい対応ができなかった」と率直に認めた。アメリカは身代金交渉に最も強く反対してきた国だが、それでも自国民を救えなかった以上、政府に問題ありと考える。
同じ日、安倍首相は衆院予算委員会で今後、情報公開するかを問われて、「テロ事件であることから、(特定秘密に)該当する情報が含まれ得る」と語り、情報公開しない考えを示唆した。
これでは検証委が政府の自己弁護にお墨付きを与えても国民やメディアは検証しようもない。その検証委は役人のみで構成され、政治家の聴取はしないことが決まっている。
先の読売の世論調査では、政府対応が適切だったと思うか、そうは思わないかという設問もあり、適切だった=55%、そうは思わない=32%という結果が報じられたのだが、そもそも政府がどう対応したかを明らかにせず、今後も公表しないというなかで、国民に判断材料などなかったはずだ。
読売の読者は、調査直前に同紙が報じたソース不明の記事、〈救出かけた首相歴訪〉(2月2日付)を読まされたくらいである。
政府の情報隠蔽を許し、現地取材や政府批判さえ否定する大新聞は、自ら国民の木鐸(ぼくたく)いすたる立場を放棄している。それはジャーナリズムの自殺だ。民主主義も自由社会も危うくする恐怖の領域に踏み込んだと言わざるを得ないが、彼らの論理に従うなら、それは自己責任だから誰も救ってはくれない。政治家も官僚も笑いをかみ殺して彼らの記事を読むことだろう。
※週刊ポスト2015年2月27日号