出会いの時、元は〈山の民〉として追われた藤原氏本流に出自を持ち、織田軍で頭角を現わしつつあった秀吉は、今一つ自分に足りないものを茶のたしなみに求めた。しかし宗及や宗久は弟子入りを無下に断り、そこに助け舟を出したのが宗易だ。
当時信長は茶会を許可制にし、道具一つにも〈茶の湯御政道〉を敷く中、宗易も箱書きを担うことで出世と財を成し、〈所詮は遊び。されど遊びは複雑にするほどおもしろく、奥が深いようになる〉との極意を共有した2人は、以来師弟の絆で結ばれることとなる。
ところが明智光秀の決起で状況は一変。本来京にいてはならない宗易は山崎・妙喜庵の秀吉の陣をめざし、その道中に聞いた〈上さまは生きている〉との噂や、後日宗二が本能寺で〈焼け物探し〉をしても見つからなかったと書くつくも茄子の行方など、先の三部作にも通じる独自の本能寺観が、ここで意味を持つ。
「足利義満から朝倉家、松永弾正を経て信長に渡った唐物茶入が、その夜本能寺にあったのは確かなんです。それが信長の遺体共々忽然と消え、再び表に出るのは大坂夏の陣。家康は大坂城で真っ先にこれを探させ、漆の名工に修復させたものが、今は静嘉堂文庫にある。
問題はそれが何度焼けたかだけど、あれはレントゲン写真で見ても本能寺と大坂城で二度焼けた物じゃない。そもそも本能寺から消えたものがなぜ大坂城にあるのか、そこは徹底的に拘ると、天正15年、秀吉が開いた新年の茶会記に、〈似(の)り〉という表記が登場するんです。つまり宗久はそれをつくも茄子に似せた模造品と書き、私は利休なら本物と見破ったはずと小説に書く」