作家・森村誠一さん(82才)の家には、6才のメス猫がいる。名前はチビクロ。家に寄りつくようになった野良猫を数年前から飼い始めた。
「子供の頃から大の猫好きでした。小学校の頃には、コゾという名前の猫を飼っていました。家族同様、いや、家族以上の存在でした。家族みんなから愛される、そんな猫でした」(森村さん、以下「」内同)
が、愛猫のコゾは、70年前のあの日から行方不明になったままだ。森村さんは、1933年、埼玉県熊谷市に生まれた。現在は猛暑で知られる埼玉北部に位置する熊谷市には、当時、軍需工場に部品を納める工場が点在しており、近隣には陸軍の飛行場もあった。両親と3人の弟妹の6人で暮らしていた。
「明治生まれの親父は、ハイカラな人でした。当時珍しかったアメリカ車を買い集め、ドライバーを何人か雇って、個人タクシーの仕事をしていました。読書好きで家は本や雑誌であふれていました。夏目漱石、菊池寛、吉川英治といった小説から『キング』や『講談倶楽部』などの雑誌まで手当たり次第読みふけりました」
戦争が始まったのは8才の時。1941年12月の開戦直後は、華々しい戦果が伝えられた。だが、徐々に戦況は悪化。森村さん一家の生活も、以前のようにはいかなくなった。
「近くの町が空襲され始め、朝の挨拶が『おはようございます』から『今日も生き延びましたね』に変わりました。いつ空襲があっても避難できるように、ビスケットや着替えなどを入れたリュックを布団の傍に置いておきました。外行きの服で寝ていましたね。
登下校時は、いつも下を向いて歩いていました。釘やどんぐりを見つけて、学校の先生に渡すためです。釘は飛行機や戦艦の材料に、どんぐりは飛行機の代用燃料になると教えられていました。戦争小説を読んでいたので、釘やどんぐりが本当に飛行機の材料や燃料になると信じられなかった」
森村さんの楽しみだった読書の時間も、戦争が奪っていった。
「夜、空襲警報が発令されると、電気を点けられないんです。昼間読めばいいかというと、それも難しかった。当時は、小説などを読んでいたら非国民扱いされました。ある日、学校に尾崎紅葉の小説『金色夜叉』を持っていったんです。そしたら上級生に見つかって、この非常時に、『キンイロヨマタ』などという文弱なものを読むとは何事だとこっぴどく叱られました。金色夜叉をキンイロヨマタと呼ぶのがおかしくて笑ったら、ぶん殴られました。
学校では『進め一億火の玉だ』『撃ちてし止まん』『欲しがりません勝つまでは』といった言葉を何度も何度も復唱させられました」
同胞であるはずの日本人から、ゆえなき暴力を受けたのは森村さんだけではなかった。近所に住んでいた若い女性も被害に遭った。
「親族の結婚式に出席するため、振袖を着て髪にパーマネントをあてて、おしゃれをして出かけていったんです。ところが、その姿を見た翼賛(軍を支援する)女性から『ぜいたくは敵だ』と髪も振袖も切られてしまって、泣いて帰ってきたのです。
周りの人たちは、当たり前のような顔をしていましたが、ぼくの親父だけは違った。『この時代には貴重な振袖をも切るなんて』と怒っていました。親父がそう言えたのは、たくさん勉強をして現実を冷静に見られる力があったからだと思います」
※女性セブン2015年8月20・27日号