他にも反対派は、「親子で姓が異なると子供に悪影響を与える」と眉間にしわを寄せる。「兄弟で姓が違うという問題がおきる」とも言う。これがイマイチ私には解せない。
親子や兄弟なのに姓が異なるのは異常だ、という考え方を教育機関なり報道機関なりが国民に植えつければ、たしかに別姓は子供に悪影響を与えるだろう。しかし、選択的夫婦別姓制度の導入は、夫婦の姓は別でも良く、家族が全員同じ姓でなくても構わない、という考え方の普及活動でもある。別姓を異常視しない常識づくりなのである。
もちろん、夫婦の姓が同じで家族全員が同じ姓であっても良い。国全体では別姓と同姓の親子や家族同士の共存を目指すわけである。言い換えると、自分と違う存在を認めない、という排除の論理をやめようという話である。そのどこに問題があるのか。私にはやっぱり分らない。
夫婦別姓が広がったら、由緒ある家系が途絶えてしまうのでは、と心配する向きもあるが、それは逆だ。その名家のある代が女子しか産めなかった場合、現状だと婿養子を取らなければ家系は途絶えてしまう。男尊女卑傾向があり、かつ少子化の日本で婿養子を見つけることは大変だ。そこに夫婦別姓という選択肢が増えれば、女姉妹しかいなくても家名を継ぐことができる。イエ制度の維持にはむしろ好都合なのだ。
などなど、どの角度から考えても、選択的夫婦別姓制度に決定的な難があるように思えない。なのに、強く反発するのはアレだ。ちょいと前に「同性愛は異常」と主張して、ネット上で叩かれまくった県議や市議らと似た連中ということなのではないか。「異物」に理屈を超えた拒否反応をやたらに示すある種の人々だ。
ある種の人々の思考の大半を支配しているものは、排除の論理だ。彼ら彼女らは、半径数メートルの世界の住民たちで、その外は魔界であるくらいの視野狭窄に陥っている。狭い世界に引きこもっているならまだいいのだが、時折、魔物退治の英雄気取りで弱い者いじめを始めるからいけない。
いや、彼ら彼女らにとって、自分と違う存在は魔物そのものなのだろう。よく見りゃ、共通項のほうがずっと多い人間同士なのに、恐怖が先立ってすぐ戦闘態勢になってしまう。なかなか聞く耳を持たないだろうが、「大丈夫。相手は同じ人間だし、人数もそんなにいないんだよ」と諭して、安心してもらうのが近道かもしれない。