◆2つ目の違和──視聴者を操作しようとする理由とは?
物語の前半、高良健吾が演じる練が引っ越し屋をしている間は、気弱そうで純粋そうなキャラクターだった。しかし後半に入ったとたん、キャラは一変する。
怪しげな人材派遣企業で働き、黒づくめの姿。眼光鋭く怖い表情。社会的弱者を見つけて金づるに利用する、「悪者」そのものの姿で登場。白と黒の対比。高良という役者の力は、その両方をくっきりと演じ分けるには十分だ。過去の作品『蛇にピアス』『横道世之介』『書店員ミチルの身の上話』等々で、役者としての力は証明済み。
一人の人物の急激な豹変は、視聴者を刺激することだろう。しかし、そのあまりの落差は、疑問も生む。たった5年で人はそこまで変わるのか。
何か重大な出来事があっての変化だと匂わせてはいるけれど、だからといって、純粋だった青年が、弱い立場の人を徹底的に利用する汚い仕事人になれるのだろうか。そもそもこの青年はそうした資質を持っていたのか。そうした人物を、純粋な女主人公が愛するというストーリーに、無理が生じないか。脚本上、キャラを無理にでも飛躍させないとこの恋愛物語は成り立たないのだろうか。また疑問が増えていく。
過激さ、刺激を視聴者に与え、視聴者の気を惹く。大きな変化によって驚かせ、新たな場面へと関心を向かわせる操作。何を描くために、そんな方法を選ぶのだろうか?
◆3つ目の違和──見るたびに共感より疑問が増えていくのはなぜ?
ああ、わかるわかる。そうだよね、きっとそういうことあるよね……。ドラマを見ていて抱く「共感」は、視聴者にとって最も大切だ。たとえ自分が体験していない未知の出来事であっても、想像の中で「なるほどそうか」「ありえる」と思うことで、視聴者は主人公に感情移入し、虚構のスーリーの中に入りこむ。一緒になって物語を生き、一喜一憂する。
反対に、見れば見るほど「ありえない」「ホントかなあ」「うそっぽい」と疑問や違和感が積もっていけば、視聴者は共感どころか物語に入りこむことを拒絶されている、そんな気分になる。
有村架純、高良健吾。今、まさに輝いている役者二人。このドラマの中でも精一杯演じている。二人は演技の才能にも恵まれている。可愛い、格好いいを超えた独特の個性もある。
だから、妙に極端な状況を設定して演じさせるよりも、この二人の魅力が自然に滲み出てくるような恋愛物語を見てみたい。沸き起こったいくつもの疑問に対して、回答を与えてくれる後半を期待したい。