日本では古来より天然痘や麻疹などの感染症がたびたび流行し、大勢の人々の命が奪われた。聖徳太子もその一人である。太子の母后が天然痘に侵され急逝すると、その1か月後には太子が高熱を発して病臥する。太子の看病にあたっていた膳妃が病没し、ほどなく太子も48年の生涯を閉じた。当時の斑鳩宮に急性の天然痘が流行したことは間違いない。
医学が発達していない時代の「医療」は加持祈祷が中心だった。原因解明の術もなく、疫病は天皇の失政に対する神の怒りの現れだと考えられていたのだ。疫病が蔓延したときに必要なのは神を鎮めることであり、全国の神社で国を挙げて祈祷が行われた。斑鳩宮で次々に人が斃れた時もそうだったのだろうか。
疫病以外の病は、怨霊の仕業と考えられた。順天堂大学名誉教授で医学博士の酒井シヅ氏が語る。
「平清盛はインフルエンザかマラリアのようなひどい熱発作で死んだのですが、原因は清盛の独裁政治に反感を持つ者の怨念だと言われました」
効果的な治療法など生まれるはずもなく、永きに亘り風邪や脚気、寄生虫といった難病とは言えない病で命を落とす者が後を絶たなかった。
多くの公家を輩出した藤原一族もまた、代々病患に苦しめられていた。藤原不比等も死因は天然痘か麻疹であるとされ、さらに不比等の4人の息子たちもわずか4か月の間に全員が天然痘により死んでいる。その後栄華を極めた藤原氏だが、摂政となった藤原伊尹は糖尿病を患い49歳で命を落とした。
江戸時代に白米食が広がると、ビタミンB1不足による脚気の死者が増えた。徳川3代将軍・家光は長らく脚気に悩まされた後、脚気衝心(脚気による心不全)で死去。13代将軍・家定も、わずか20歳で亡くなった14代将軍・家茂も脚気が原因だったと言われる。徳川家と脚気は切っても切れない関係なのである。
※SAPIO2016年6月号