桑名さんはぼくに抱きつき、大粒の涙を流した。父親が子供のぼくに、初めて頭を下げた瞬間だった。
「わかったよ、もういいよ…」
ぼくも父親に抱きついた。わだかまりなく桑名正博を「オヤジ」と呼べるようになったのは、振り返ると、あの一件からだったような気がする。
酒もたばこもやり、寝ずにライブのリハーサルをこなす。そんな親父がポキッと折れるときが来るかもしれない、という予感はあった。
「おれ、2人目の子供ができた」「よかったやないか」そんな会話が最後になった。脳幹出血という疾患は突然、襲ってきた。
延命処理に関してはよかったと思っている。親父は眠ったまま104日間生きた。ぼくはたくさんの涙を流し、心の準備はできたし、何百人もの人が親父と最後のお別れができた。
葬祭場の音楽葬の後、大阪市役所からミナミまで、芸能人の葬式でパレードをしたのは親父が初めてだろう。市民は大阪が生んだロックスターとして見おくってくれた。最後の場が飲み明かしたミナミだったのはいい供養になった。
肉体的にも精神的にも、拳で語り合った親父はよき先輩であり友であり、よき父親だったと実感している。今、親父を超えたと思えるのは、ぼくには4人の子供がいること。叶うなら、4人の孫たちを親父に見せたかった。
親父が亡くなって4年、さほど寂しさを感じないのは、命は継がれていくことを実感しているからに違いない。
※女性セブン2016年6月30日号