九州の暴力団筋では有名だったらしい。当時、所属していた井根組は100人以上の大派閥で、地元の暴力団利権をがっちり押さえていたという。
繁華街から上がるみかじめ料だけで月に数百万となったし、ウナギの稚魚であるシラス密漁など地元独特のシノギもある。そのため2000年を過ぎた頃、同じ山口組内部や他団体が、ちらほらと宮崎に出張ってきた。
そうした“新参団体”に対抗するために、井根組から乗り込んできたのが本田氏だったという。
「渡世名は木元っていうんですけど、古い時代のヤクザというのか、後先を考えずに突っ込んで来るような性格でした。顎(口)も立つし腕っ節も強い。元々は北九州市だったと聞いているが、宮崎が長いし、地元のようなもの。10年ほど前に破門になってからは、意識的にヤクザと距離を置いていた印象があった」(同前)
堅気になってから、本田氏は解体業を経営していた。その後の報道で宮城県岩沼市在住とされたが、東北と宮崎を行ったり来たりの日々だったらしい。同じ現場を手がけたことがある業者は、仕事のできる人物だったと証言する。
「見積もりも早いし、話があれば飛んで来てくれた。真面目で信用できる人だった。地元では世代を超えて有名だったけど、威張り散らすようなこともなかった」
事件の表層だけ見れば、抗争事件とは無縁に思える。