◆生きるか死ぬかの二つしかない
問題は善か悪かではなく、ルールに違反したか否か。オブライエンが過去に限定した薬物使用を認める一方、他選手に及ぶ証言を拒んだ津久見は、グレノンの行方を人づてに探し、あることを確かめようとしていた。
不器用な夫を妻〈恭子〉が見守る一方、リストに載りながら話題にもされない武藤の心は再び薬に傾く。かつて〈ニューエデュケーション〉という血液ドーピングを処方したグレノンは、能力向上のための薬物使用を不道徳としたのは〈キリスト教徒〉だと武藤に語った。
キリスト教徒も〈ドラッグが人類を進化させ、神に近づくための唯一の手段だと認識していた。だがそう言ってしまうと、信仰こそがイエス・キリストとの唯一の交わりだという彼らの主張に矛盾し〉〈我々はキリスト教世界の概念を押しつけられている〉と。
「こうした容認派の論理や、津久見の最後の証言が薬物を肯定していると反発する読者も僕はいていいと思う。本来は異論もある中で議論すべき問題を一時的な袋叩きで片づける空気が、僕はイヤなんです。
人事を尽くした選手がこの一打に賭けたいという時、世間のいう正しさに反することだってあると思うし、本書にも書いたように79%の力を80%へ、たった1%発揮できれば勝てると信じて選手は日々闘っている。まして今やスポーツは人類の能力の限界を超えるほど進化し、その果実を我々も享受する以上、渦中の選手を一概に責めることは僕にはできません」
〈選手は生きるか死ぬか、その二つしかない〉とあるが、違反は違反として処罰されるとしても、人格まで地に落とす必要があるのだろうか。津久見が語る〈打席に立てるなら、何をされてもいいと思っていました〉という言葉は、社会の成熟した対応を促すかにも見え、彼らの全霊を賭けた戦いやスポーツの面白さに著者が魅せられているからこそ、本書は熱く、スリリングで、どこか哀しいのだ。
【プロフィール】ほんじょう・まさと/1965年神奈川県生まれ。明治学院大学経済学部卒。産経新聞社入社後、サンケイスポーツに配属。野球、競馬、メジャー取材等に携わり、2009年退社。同年に松本清張賞候補作『ノーバディノウズ』でデビュー、翌年同作で「サムライジャパン野球文学賞」を受賞。著書は他に『スカウト・デイズ』『球界消滅』『誉れ高き勇敢なブルーよ』『LIFE』『トリダシ』『ミッドナイト・ジャーナル』『マルセイユ・ルーレット』等。170cm、60kg、B型。
■構成/橋本紀子 ■撮影/三島正
※週刊ポスト2016年9月30日号