◆「金くれちゅうこっちゃろが」
大邱に到着して、まず向かったのは、市の中心部に近い雑居ビル群の中にある「一直孫子会館」だった。ここは、朝鮮半島南東部に位置する慶尚北道(キョンサンプクト)・道庁所在地の安東市をルーツに持つ「孫一族」の氏子集団の親睦を目的として作られた。事務所を訪ねると、10人ほどの老人が一斉に立ち上がり握手を求めてきた。全員、「孫氏」である。
「孫正義は一族の誇りです」
事務局長の孫在出(ソンジェチュル)が顔を紅潮させながら言う。応接室の書棚に眼をやると、孫正義関連の本がズラリと並んでいた。孫在出は、自慢げに簡易製本された「一直孫氏」の家系図を広げた。大邱一帯には、孫一族が約3万人おり、孫正義は、25代目にあたるという。
「直接手渡そうと思って作ったが、どうやら彼は忙しいらしい。日本に帰ったら正義に渡してほしい」
そこを辞去して大邱の郊外ののどかな農村を訪ねた。ここは正義の祖父の孫鍾慶(ソンジョンギョン)が住んでいたところである。孫の遠縁にあたる男に話を聞くことができた。
「孫鍾慶の家は代々、米を作っていましたが、近くに日本軍の飛行場ができたため、農民が土地を奪われた。そこで鍾慶は仕方なく日本に出稼ぎに行ったんです」
日本で鍾慶は正義の祖母・李元照(イウォンゾ)と出逢い、その後、正義の父・三憲(みつのり)を含めた4男3女をなした。鍾慶は戦後、子供を連れて一時大邱に戻ってきたという。
「だが祖国は荒廃し、仕事はなかった。鍾慶一家は一年滞在しただけで、日本に戻りました。そのとき彼らが住んでいた家はもうない。朝鮮戦争が始まると、今度は米軍が日本軍から接収した飛行場を拡張するために、この一帯の家を取り壊した」
田畑は日本に、家は米に接収された。孫正義は日米韓の悲しい歴史の狭間で産み落とされた男だった。