朝鮮戦争を巡る確執から豊臣秀吉と対立し続けた御陽成天皇は、秀吉の死後もその影響力を嫌い、秀吉に近い良仁親王ではなく第2皇子である智仁親王への譲位を図った。ところが、この譲位は徳川家康に反対され、第3皇子の政仁親王(のちの後水尾天皇)に譲位することとなる。約300年続いた徳川幕府は、天皇とどのような関係を取り結んだのか。歴史家の八柏龍紀氏が解説する。
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後水尾天皇が即位すると、幕府は本格的な朝廷統制に乗り出す。元和元年(1615年)、幕府は「禁中並公家諸法度(江戸幕府が天皇や公家を統制する法令)」を公布し、さらに京都所司代が完全に朝廷を監視するようになった。
それとともに徳川家康は、天皇に徳川の娘を入内させ、徳川の血を朝廷に注入することを望んだ。
そして家康の孫娘・和子(まさこ)の入内となったが、その準備の最中、後水尾天皇に仕える女官・四辻与津子(およつ御寮人)が皇子を出産したことが露見し、激怒した幕府は公家の責任を追及。この介入に憤慨した後水尾天皇が出家退位を仄めかすと、幕府はこれを許さず、公家衆を流罪に処して恫喝を加え、和子を入内させた。
その後、「高僧に紫の衣を授けてはならない」という禁令を楯にした朝廷への圧力事件“紫衣事件”が起き、朝幕関係は再び緊迫化した。
幕府に抵抗した高僧が流罪となるなか、後水尾天皇は徳川家の血を引く男子の皇位継承を阻み、女帝の明正天皇に譲位した。後水尾天皇は、自らの「押込め」をはかる幕府に対し、ギリギリの抵抗を見せたのだ。