●怨霊を封じ込める観音像
聖徳太子の死後、息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)は政争に巻き込まれた末に一家心中をしたと『日本書紀』に記されている。結果、聖徳太子一族は絶滅し、拠点であった斑鳩(いかるが)の地に彼らを偲んで建てられたのが、法隆寺の東院伽藍(がらん)とされる。
ここでもまた井沢氏は「逆説」を唱える。この東院伽藍は聖徳太子の怨霊封じのために建立されたという。
東院伽藍の中心に祀られている救世(くぜ)観音は、聖徳太子の等身像ともいわれていますが、そもそも「世の中を救う」観音なのに、フェノロサ(※注)が無理やり開けさせる前までは布に包まれ、絶対封印を解いてはならないと伝えられていた。
【※注/アメリカの東洋美術史家。明治時代に来日し、日本美術を海外へ紹介することに尽力した。同じく美術史家であった岡倉天心と近畿地方の寺や神社の宝物を訪問調査していた際、法隆寺の救世観音像が「秘仏」とされていることを知って開帳を迫った】
これは「怨霊を封じ込めたもの」に対して人間が取る態度です。仏像の首の後ろに楔が打ち込まれていたのも、聖徳太子が怒って悪霊になるのを恐れたからだと考えると合点がいきます。
ただ、私は聖徳太子は端的にいえば、“スーパーマン”のような人だったと思います。様々なミステリーが持ち上がるのも、それだけ彼の功績が人並み外れたものだったからでしょう。
背景を深く考えるためにも、「厩戸王」が本名だから「聖徳太子」という名はいらない、とする歴史教育はおかしいと思います。
※週刊ポスト2017年4月21日号